タブー視せず向き合う課題
タブー視せず向き合う課題
- 「一事から考える万事①~今回の件を機に考えたいこと」
- 「一事から考える万事②~自称神学博士について」
- 「一事から考える万事③~牧師の自己顕示欲」
- 「一事から考える万事④~利用されてしまう大御所」
- 「一事から考える万事⑤~大御所にモノ言えぬ体質」
- 「一事から考える万事⑥~老害指摘タブーと結果的放置」
- 「一事から考える万事⑦~愛の訓告者の不在」
- 「一事から考える万事⑧~表面的かつ感情的で極端な反応」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任①~箴言29:18の真意」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任②~その正体は?」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任③~誰の願いを誰が叶えるのか?」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任④~諦めなければ・・・の無責任」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任⑤~信仰リーダーの無責任」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任⑥~カルトリーダーの無責任」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任⑦~高齢牧師の無責任」
- 「福音の終末教化、キリスト教の新宗教化」を危惧して
- 「私自身の証し~生の意味の最終的根拠としての終末」
- 「一女性の証し~生の意味の最終的根拠としての終末」
- 「来る来る詐欺に気いつけなはれや、閉店セールは嘘でっせ」
- 「仲間意識が仲間はずれを作る~範囲限定的愛の罪深さ」
- 「JKT(ジャニーズ、歌舞伎、宝塚)から、振り返る昭和の教会」
- 「卒業すべきもの~祝福の獲得ための聖書の文字通りの実行」
「JKT(ジャニーズ、歌舞伎、宝塚)から、振り返る昭和の教会」
2023年には、芸能界に次々と激震が、ジャニーズ、歌舞伎、宝塚での虐待やハラスメントが明らかとなり、問題視されることに。この三つをまとめて”JKT”と呼びます。現象面だけでなくその体質や精神性にある共通性があるからです。そのことを考えると、昭和のメンタリティーの残像の最も悲惨なものを見せられている思いがします。私が救われた1980年には、いわゆる福音派のキリスト教会では、以下のような発言や行為が結構、標準的だったと記憶します。
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〈夫婦間で〉
「妻は夫に従いましょう。夫が泥棒しなさいと命じたら、妻は泥棒をすればいいのです。」
これが、聖書的とされることもあった時代でした。真に受けて、夫に盲従し、人格的な愛の交わりを失い、悲惨な結婚生活を送る妻たちも。また、亭主関白こそ聖書的と考え、妻を支配するクリスチャン男性も。たぶん、今でもその残像に生きて、乏しい結婚生活活を送っている方は少なくないでしょう。
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〈親子間で〉
「教会に行くことを嫌がる子どものお尻を叩いても行かしましょう」
「言うことを聞かない子に対しての天国に行けない等の脅し」
そんな親たちもいました。前者については、推奨する教会さえありました。これが子どもの救いと祝福を願う親の愛として、賞賛されることも。現在なら「虐待」に相当すると判断されるのかもしれません。これらは、「目的が手段を正当化する」逸脱の代表でしょう。
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〈指導者と献身者で〉
「主任牧師が黒いピアノを白だと言ったら、献身者は『はい、白いです』と言うべき」
神が立てた権威を、神と同等に位置付けているわけです。人間を絶対者として、絶対的服従を求めるのは、カルトチック。「神が立てた権威を尊重し従うこと」と、それに「無思慮、無批判で従うこと」とは、外的現われは同じでも内実は正反対。
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〈三つに共通する課題は?〉
これらは、いずれも、「夫に従いなさい」「親に従いなさい」「指導者に従いなさい」などの聖書の言葉を根拠とします。しかし、これらは聖書の一部の言葉をもって、聖書全体が示す正当な権威行使や夫婦、親子、教職についての普遍的な教理を、転覆させているのだと私は考えています。つまり、「強者にとって都合の良い聖書の言葉」をもって、「弱者の尊厳」や「愛の関係性」を示すより普遍性の高い言葉を否定しているのです。
「聖書信仰」を標榜しながら、ある分野においては、「一句主義」であり「世俗主義」に陥りながら「非聖書的歩み」をしてきた面があるように思えてなりません。権威や人間関係については、聖書ではなく時代のメンタリティーを基準に教会が歩んでいたように回顧するのです。
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〈黒歴史以降の世代への期待とお願い〉
50歳未満の世代になるでしょうか?黒歴史以降の世代の皆様には、この「日本教会の残念な現代史」を知っていただき、「内実を伴った聖書信仰」に歩んでいただきたいものです。
また、「残像」に生きて、苦しんでいる方々が身近にいらっしゃるなら、こうした歴史的経緯を持つものとして暖かく理解し、祈り執り成し、可能なら支援をと期待しています。