タブー視せず向き合う課題
タブー視せず向き合う課題
- 「一事から考える万事①~今回の件を機に考えたいこと」
- 「一事から考える万事②~自称神学博士について」
- 「一事から考える万事③~牧師の自己顕示欲」
- 「一事から考える万事④~利用されてしまう大御所」
- 「一事から考える万事⑤~大御所にモノ言えぬ体質」
- 「一事から考える万事⑥~老害指摘タブーと結果的放置」
- 「一事から考える万事⑦~愛の訓告者の不在」
- 「一事から考える万事⑧~表面的かつ感情的で極端な反応」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任①~箴言29:18の真意」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任②~その正体は?」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任③~誰の願いを誰が叶えるのか?」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任④~諦めなければ・・・の無責任」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任⑤~信仰リーダーの無責任」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任⑥~カルトリーダーの無責任」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任⑦~高齢牧師の無責任」
- 「福音の終末教化、キリスト教の新宗教化」を危惧して
- 「私自身の証し~生の意味の最終的根拠としての終末」
- 「一女性の証し~生の意味の最終的根拠としての終末」
- 「来る来る詐欺に気いつけなはれや、閉店セールは嘘でっせ」
- 「仲間意識が仲間はずれを作る~範囲限定的愛の罪深さ」
- 「JKT(ジャニーズ、歌舞伎、宝塚)から、振り返る昭和の教会」
- 「卒業すべきもの~祝福の獲得ための聖書の文字通りの実行」
「私自身の証し~生の意味の最終的根拠としての終末」
昨日紹介した小田垣雅也先生の言葉によれば、終末とは、「生の意味の最終的根拠」。同じく小田垣先生によれば、聖書が記していない終末についての具体的詳細まで、知り得たとするのは、「思い込み」であって、「宗教的無知蒙昧」。それが、本来、生の意味の最終的根拠である終末を「脅迫的手段」へと変質させ、私たちの歩みを福音から逸脱させてしまうのでしょう。
今日は私自身の献身の証しを記します。なぜなら、私に、献身を決断させたのは、「生の意味の最終的根拠としての終末」だったから。私がいわゆるフルタイムの献身へと導かれたのは、30歳の時、公立高校教師となり6年目、結婚して3年目でした。職場での行き詰まりを通じて、献身への導きを感じ始め、それが明確になっていっても、従うことができずにいました。
貧しい家庭に育ち、貧乏を抜け出すために勉強し、国立大学(学費免除)に入ったので、二度と貧乏暮しはしたくありませんでした。何より、自分ではなく、運命共同体である妻につらい思いをさせることを思うと避けたかったのです。
「定年まで勤めて、退職金をいただき、神学校に入り、無給で牧会しますから」との妥協案も、神様からダメ出し。最後は召しの声を聴かなかったことにして、妻にも内緒にして、ごまかして定年まで勤めようかと考えていました。
そんな私に、神様が示されたのは、「再臨」でした。ある時、導きを求めて、祈っている時、神様が示されたのは、いつもの愛と恵みに満ちたイエス様ではなく、義なる裁き主であるイエス様でした。そうです、再臨の主でした。自分が、歴史の最後に、この方の前に立つという厳粛な事実を示されたのです。夢や幻ではありませんでしたが、極めてリアルなものでした。
この時、再臨は、私にとって「未来についての教理」から、「現在の歩みを決定づける確定事実」となったのです。主が再び来られるという現実が、今をどう生きるかを規定したのです。「再び、イエス様の前に立つのだから、ごまかし続けて地上を終えられない。そんな人生を歩んでおいて、私のために十字架に架かられたイエス様の前に立つことなど、できない!」それが私の結論でした。
召しの声に耳を塞ぎ、ごまかし、逃げ切ろうとした私に対して、神様が最後に切ったカードは、「キリストの再臨」だったのです。神様は、終末という「生の意味の最終的根拠」を突き付け、意味ある人生へと私を導いてくださいました。
そして、それは、決して、「脅迫的手段」ではありませんでした。私は「キリストの献身への愛の応答」として、主体的に全生涯をキリストにささげようと決心したのです。こんな献身の経緯をもっているからこそ、正しい目的のためであっても、終末を脅迫手段のように用いることには、強い抵抗感を覚えます。
「学校の教師を辞めて、献身とは偉いですね」「安定した将来を捨ててまで神様に従って、素晴らしい」と言われますが、トンデモありません。私は、神様の召しを知りながら、ごまかしと逃亡の人生を送ろうとしたヨナのような人間です。再臨を突き付けられて、ようやく悔い改めて、ニネベに向かったポンコツです。
第2ペテロ3:11によれば、再臨の意味の一つは、「地上の敬虔な生活を送るための動機付け」です。「このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。」と書かれているとおり。
再臨の約束、イエスが来られ被造物世界が更新されるとの約束は、私たちの地上の生涯を聖なる敬虔な歩みへと導きます。現世がすべてであるかのような錯覚に陥り、世俗的な歩みをしがちな私たちを、本来の祝福の歩みへと立ち返られせてくれるのは、再臨の約束なのです。だから、終末は私たちにとっての「生の意味の最終的根拠」なのです。
神様から「生の意味の最終的根拠」を突き付けられて、今の私があります。不徹底極まりないとは言え、本物と言える人生を夫婦で歩ませていただき、幸せです。私のようなポンコツでもそうなのですから、真面目なクリスチャン読者が同じ恵みに歩めないはずがないでしょう。
「証し」と言いながら、最後は「奨励」になってしまいました。どうか、聖書が記す終末を「生の最終的根拠」として受け止め、神様の召しに歩まれますように。イエス様が来られた2000年前から、人類の歴史は終末へのカウントダウンに入っています。
ですから、「終末を生きる神の民」とのアイデンティティーをもって、日々近づく終末を覚えながら、敬虔な歩みをしたいものです。間違っても、終末について具体的詳細まで知り得たように思い違いをして、自分にも他者にも脅迫的に用いることのないようにと願います。
主が再び来られることを思い、召されたところで忠実に愛をもって仕えましょう。パウロがテサロニケ教会に命じたように、性的な聖さに生き、結婚関係を大切にし、落ち着いて社会生活を送りましょう。主が再び来られることを覚えながら、今、召されているその場所で、神と隣人を愛し、キリストを証ししてゆきましょう。