タブー視せず向き合う課題

タブー視せず向き合う課題

「福音の終末教化、キリスト教の新宗教化」を危惧して

 昨日、10年ぶりくらいで、小田垣雅也著「現代のキリスト教」を読みました。読み始めると3ページにある「はじめに」の一文に、目が釘付けに。それは当時のオウム真理教事件を受けてのこんな文章。(『』は強調のため私が付けたものです)
 
「世の終末に対する関心は、キリスト教をはじめ、古来どの宗教にもあるが、1975年ごろから始まったいわゆる第三次宗教ブームの特徴は、それらの宗教がみな『終末教』であることだと言われている。
 しかし、その終末、エスカトスが、伝統的な宗教では、そうであったように、『人間の生の意味の最終的根拠』として理解されずに、逆に『人を脅迫する概念』になってしまった理由は何か。
 それは一口で言えば、神とか終末とかいうような、人間は本来手にとれぬものを、手にとったと思いこんだ当事者たちの『宗教的無知と蒙昧さ』が、その根本原因であると私は思う。」
 
 従来の「新興宗教」とは異なる第三次宗教ブームにのった「新宗教」の特徴が「終末教」であること。終末論が、脅迫的概念になってしまったこと。その理由としての人間としての謙虚さを忘れたことに由来する宗教的無知と蒙昧さ。これらの指摘は的確だと思います。
 聖書の終末論が、脅迫的概念になってしまっているならどうでしょう?再臨の近さをアピールすることで、救われる人起こるから、クリスチャンの信仰姿勢が正されるからよいのでしょうか?そうしたyoutubeや発信によって、未信者が福音に触れる機会が増えるからよいのでしょうか?
 
 強迫観念による伝道や信仰姿勢の矯正が是とされるなら、それは非聖書的プラグマティズムでしょう。結果と効果によって、聖書的でない動機や手段が正当化されのですから。決して、神様はそれをお喜びにはなりません。聖書が示す神様のみこころと異なるありようだからです。
ルターはこう言ったと伝えられています。
「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える。」
 
日本基督教団の信仰告白(同教団公式サイト)にはこうあります。
「教会は・・・・愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む。」
 
パウロは、再臨間近と考えてたテサロニケの信徒たちに社会人として「落ち着いた生活」を送るよう指導しています。
 
 昨日のコメントでは、使徒1:7を示していただきました。再臨による最終的な神の国の到来について、こうおっしゃっています。「イエスは彼らに言われた。「いつかどんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです。」
 
 イエス様は、一方で、終末のしるしを示しながら、時期については、知らなくてよい、神に委ねるべきと断言しています。だとしたら、再臨の時期や反キリストを具体的に予想したり、特定すること自体、どうなんでしょう?神の領域に対しての越権行為なのかもしれません。
 
 少なくとも、聖書が明示している再臨を待ち望む歩みより、聖書が明示しないことの予想・特定に熱心になるのは、間違いでしょう。ましてや、自らや他者に対して「脅迫的」になるとしたら、それは、「福音の終末教化」、「キリスト教の新宗教化」になりはしないかと危惧を覚えています。
 
 終末はセンセーショナルで、未信者の興味関心を惹きます。疎外感を覚える現代人の心の空白を埋める要素を持ちます。「強迫性を持ち、効果的」だからこそ、安易に伝道に用いてはならないのです。即効性の誘惑に負けず、聖書的かつ慎重でなくてはならないのでしょう。
 小田垣雅也先生の言葉に触れながら、そんなことを考えています。
 
〈追記〉
 終末を切り口にした伝道、終末を提示して、信仰姿勢を正すことを自体を否定しているのではありません。脅迫的にしないことが大切です。むしろ、生の最終的根拠として提示することは、聖書的で健全なことだと考えています。誤解がないように追記として記します。