タブー視せず向き合う課題

タブー視せず向き合う課題

「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任④~諦めなければ・・・の無責任」

 一連のシリーズの根底にあるのは、ある問題意識。それは、個人が抱く夢や幻が精査されずに、安易に神様から夢や聖書的な幻とされがちなこと。また、それが福音理解やクリスチャン人生を本末転倒させていると思える現状。
 さらには、そのことによって、信仰をこじらせて、苦しんでいるクリスチャンたちの存在。個人レベルにに留まらず、信仰リーダーの夢や幻が、教会全体を傷つけ、破壊する事例さえあります。そうした問題意識や痛みに立って、記していることを前提にお読みいただければ、感謝です。
 あと何回かにわたって、取り上げたいのは、「夢」という言葉が時に引き起こす「無責任」です。4回にわたり、代表的な事例をあげみましょう。夢が無責任をもたらすのは、「いつも」ではなく「時に」ですから、その点は誤解のありませんように。
 あいみょんのヒット曲の一つには「わたしの夢はお嫁さん、誰か叶えてよ」という歌詞が登場します。このご時世にあっては、インパクトのある歌詞です。歌の主人公は結構こじらせている女子とわかり、納得。例えば「お嫁さんになりたい」という夢は、約80%の確率で叶うでしょう。
 一方で、「私の夢は、日本初の女性総理大臣、誰か叶えてよ」と言われたら、「まずは、おまえが、がんばれよ」と言いたいです。この夢がかなう確率は、分子が1で、分母は天文学的数字でしょう。
 お嫁さんであれ、日本初女性総理大臣であれ、「夢の実現を目指して努力しよう」励ますのは、普通のこと。しかし、「諦めなければ、夢は必ず叶う」と語ったら、それは、明らかに無責任な言葉でしょう。二人の女性が諦めずに、真摯な努力して、叶わなかった場合にこの発言の責任はとれるのか?
 私は「あなたの夢を諦めないで」と歌い励ます岡村孝子はOKですが、「諦めなければ夢は必ず叶う」と断言する教師や上司、指導者には不信感を覚えます。「あんた、その言葉、責任とれるの?」とツッコミたいです。
 「イチゴ白書をもう一度」に共感する世代の方などは、本気で社会を変えるという夢に挫折を覚えて、変えたかった社会の歯車になっていったという面もあるのでは?よくも悪しくも、それは大人になり、社会参加するということでしょう。
 「夢を諦めて、大人になる」というプロセスは、社会参加には、必要な要素の一つかと思います。学生運動が盛んであった世代に限らず、どの世代であっても、「夢を諦めて大人になる」「夢破れてからの社会参加」というプロセスが、日本社会における「通過儀礼」となっているという面にも、しっかりと目を向けるべきではないでしょうか。
 国際的な「学力」の定義は「市民社会に参加する力」と昔、教えていただいたことがあります。そう考えると、学校の使命も家庭教育の目標も、「学力をつけること」であり、「夢の実現をサポートすること自体」ではないでしょう。
 「夢破れての社会参加」となったとしても夢に向かって積み上げてきた努力は、社会参加をした以降に、報われるとの声があります。つまり、「学力」をつけたわけです。そのように、夢を励ますのは、教育的でしょう。
 その一方で、格差社会の中で、その努力さえ、報われない現実を指摘する声もあります。日本の社会構造が、既に大きく変化しているのは事実でしょう。以前のコメントでは両方の声をいただき、深く考えさせられました。
 激変を遂げつつある日本社会の中で、次の世代を担う子どもたちや中高生らに「夢をどう語るか」「夢についてどう教えるか」は、大切なことでしょう。だからこそ、「諦めなければ、必ず叶う」という無責任発言は慎んで欲しいと切に願います。