タブー視せず向き合う課題

タブー視せず向き合う課題

「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任③~誰の願いを誰が叶えるのか?」

〈願いと祈りの違い〉
「叶えられない願いはあるが、応えられない祈りはない」と言います。神様はクリスチャンを愛し、良いものを与えようとされます。基本的に、願いを叶えてくださる方なのでしょうが、願った通りのものが与えられるとは限らないのも事実。Aを願ったのに、Bが与えられることもしばしば。
 その時、私たちは神様が祈りに応えなかったと考えがちですが、祈りは応えられており、Bこそが祈りの応答なのです。Aより良いものとしてBを与えて下さっているのですが、限界ある私たちの頭脳では、それが理解できません。
 その結果、神様の愛と最善を疑ったり、祈りが応えられるとの確信を失ったり。自分の願いを絶対視し、自分の願いを最優先すると、神様のくださる最善や神様の主権を見失います。信仰の中心が神様から自分へ移行し、いよいよ本末転倒に向かうもの。
〈ピリピ2:13について〉 
 自分の心に起こる願いを、神様からのものだとする聖書的根拠として、よくピリピ2:13が引用されます。この御言葉は文脈から切り離されて、使われがちですが、13節は12節からのつながりで語られています。
 「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」と語る13節は、文脈上、12節の「自分の救いを達成するよう努めなさい」をサポートする言葉でしょう。
 自らの救いを達成しようと努力しても、志は弱く、それを実行する力もない私たちです。ですから、「自力で達成するのではないよ、神様が志を立てさせ、それを実行させてくださるから、神様が救いを達成させてくださるするから、神様に信頼して努めなさい」というのが13節の語り掛けかと思うのです。
 だとしたら、13節の「志」は、「自分の救いを達成するための志」であって、「将来は○○になりたい」のような「一般的な志し」ではないように私には読めます。
 私たちは、ピリピ2:13を誤読、あるいは、間違って拡大解釈をしがちではないでしょうか。その結果、自分に与えられた「志」を、安易に、神様が立てさせたと判断し、正当化してしまうことはないでしょうか?
 ただし、誤解をされませんように。聖書を読む中で、祈りの中で、与えられる思いや志が神様からのものであることを否定しているのではありません。ピリピ2:13を安易に根拠として、自らの思いを権威付けする危険性に警鐘を発したいのです。失礼ながら、身に覚えのある方は、一度、御言葉の前に自らを検証してみてはどうでしょう?
〈連載の意図〉
 連日のこのテーマで投稿をしている理由は、「自分の願い」を最優先し、その実現を神様がサポートする歩みが、信仰生活とされがちな風潮を感じているからです。
 言い換えれば、「聖書的成功哲学」や「自己実現教、キリスト派」が福音にとって替わっている現状があるからです。また、残念なことに、本物の福音よりそちらの方が、魅力的で人気があるからです。そのような目的、意図に沿って、この投稿を受け止めていただければ、感謝です。
〈クリスチャン女子高生の証し〉
 今回は、最後に中野雄一郎先生の書物から一つの証しをご紹介。
 一人の女子高生が教会に来てクリスチャンになりました。ある日のこと、学校に行くと、某新興宗教の信者である女学生たちが彼女の周りを取り囲んで言いました。「あなたはクリスチャンになったそうですが、あなたの神様はどんな願い事を聞いてくれたの。私たちの信じているご本尊は、あれもやってくれたし、これもやってくれたのよ。あなたは何を聞いてもらったの」
 クリスチャンになったばかりの彼女はこう答えたそうです。「私たちの神様は、私たちの願い事を聞いてくださるんじゃないの。私たちが神様に聞くのよ」彼女を迫害していた生徒たちは、一人ひとり彼女から離れて、去っていったそうです。
 この証しについて、中野先生はこう語っておられます。「私は彼女のこの話を聞いた後に3つの神学校に行きましたが、この言葉はどんな神学校で勉強するよりも、的を射たキリスト教の聖書神学を表す言葉です。私たちが神様に聞くのです。神様がイニシアティブをお取りになる。神様が主語なのです。これが私たちクリスチャンの人生です」
〈まとめ、そして最後に〉
「誰の願いを誰が叶えるか?」
それが真のクリスチャン人生と、似て非なる歩みを分けます。
本来のクリスチャンの歩みと、本末転倒した歩みを分けます。
神様は私たちを愛し、御心に沿って願いを叶えてくださる方。
他方、神様に召された民は、神様の願いを叶えるために召された民
お互いは、前者と後者のどちらを優先して、歩んでいるのでしょう。