タブー視せず向き合う課題

タブー視せず向き合う課題

「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任①~箴言29:18の真意」

 シリーズで「夢と幻」を扱います。あえて挑戦的な副題をつけました。それは「美しく、曖昧で、時に無責任な言葉」という文言。
 初回は、クリスチャンとしての基本中の基本を確認。箴言29:18の真意を扱います。「『幻のない民は滅びる』とありますから、クリスチャンも、教会もヴィジョンを持ちましょう」というアピールを20世紀末までは、よくお聞きしました。
 21世紀になると、その聖句使用の過ちが指摘されてきたので、さすがにお聞きすることは少なくなりました。「幻のない民は滅びる」との文言は欽定訳だそうですが、「幻」の意味を検討せず、文脈と切り離すことで、一般的な「ヴィジョン」が、この聖句に読み込まれ、箴言29:18の誤読は生まれているのでしょう。
新改訳2017ではこう訳されています。
「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。
しかし、みおしえを守る者は幸いである。」
新改訳第三版ではこのような訳
「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。
しかし律法を守る者は幸いである。」
 まず、「幻」と訳されている言葉は、「映像を伴う特別かつ直接的な啓示」ではなく、「啓示一般」あるいは「宗教」を意味する言葉だそうです。そして、18節を読めば、一行目と二行目が対比されているのは明らか。「幻」と「みおしえ」、あるいは「幻」と「律法」が同じ内容を指し示していることが分かります。ですから、「幻のない民は滅びる」とは「律法、みおしえ、神の啓示がなければ、民は好き勝手して、滅びる」ということ。
 というわけで、クリスチャンにも、教会にも、最も必要な「幻」は「聖書」。最優先で、果たすべき夢も、個人の具体的な「主からの夢」や「神なき自己願望」ではなく、聖書に記されている「神様の夢」。神様が私たちに実現して欲しいと願っておられる夢でありましょう。
 いいえ、実は、その夢の実現に、既に教会という神の民として、クリスチャンは神様と共に歩んでいるのだという自覚を持つことかと思います。クリスチャンの召しの意味、救われた目的はそこにあるはずかと。(あれ?そうだったの?と思う方も少なくないかも・・・)
 クリスチャン個人や教会が、いわゆる「ヴィジョン」を持つこと自体に反対しているのではありません。そうではなく、「ヴィジョン」という言葉を使用する時は、その意味、内容は確定すべきだろうと思うのです。
 そして、ヴィジョンの必要性を、箴言29:18を根拠として訴えるのは、失礼ながら、御言葉の誤用・乱用だとの私見をお伝えしているのです。反対や異論もあるでしょうが、参考していただければ、感謝なことです。
「夢」「幻」「ヴィジョン」、どれもが美しく、魅力的な言葉です。それだけに意味が曖昧なまま使用すると、「雰囲気一発」や「共通理解なき共同幻想」となります。そして、結果として、「無責任な言葉」となってしまいます。「ヴィジョン」が、皮肉にも「民は好き勝手にふるまう」との結果をもたらすことにもなりかねませんから。