タブー視せず向き合う課題

タブー視せず向き合う課題

「卒業すべきもの~祝福の獲得ための聖書の文字通りの実行」

 今日は敬愛するM先生のFB投稿に、激しく共感を覚えました。そして思ったのです。「もう、こういうの、卒業しようよ」と。M先生の周囲はでは、「かつてのこと」のようですが、私の周囲では「いまだにあること」で、そうしたケースを時々、見聞きするからです。
 
 祝福をいただくために、聖書の「文字通り」の実行が推奨。それは取引であり、律法主義に。それは聖書本来の意図を逸脱し、「妻を支配する夫」「夫に従属する妻」「親に無条件服従の子ども」へとクリスチャン家庭の各人を導きます。さらには、安易な「子どもへの体罰の聖書的正当化」となり、時には「夫婦間DVの土壌」となってきたように思います。
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 そのようにして、間違った福音理解とそれに基づく実行は、とりわけクリスチャン家庭での暴力や苦しみから、教会の眼を背けさせてきたのではないでしょうか。この克服のためには、M先生が最後に示してくださっている視座は、大きな助けになるように感じています。
 では、ご本人のご許可のもと、以下に、その投稿を転載します。読者の皆様のお役に立てば、感謝。「もう、こういうの、卒業しよう」と決意し、一歩踏み出す方が起これば、さらなる感謝です。
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〈M先生のFB投稿〉
 かつて私の周辺で、神の祝福を獲得するために聖書の言葉を文字通りに守らなければならない、ということがよく言われていました。聖書の言葉を守ることが神の祝福の保障となると。逆に、聖書を守らなければ、神の祝福を失うと考えられていたと思います。
 
 神の祝福を得るために、女性を従属的な地位に置く。神の祝福を得るために、子どもへの体罰をやめない…どのように考えるべきでしょうか?
 
 このような聖書理解は他律的で、神の言葉を自分で咀嚼しようとはしません。神の言葉は祝福のための取引材料となってしまっています。これは、いわゆる律法主義になります。そして、現実に存在する苦しみから目を背けます。
 
 差別と暴力に由来する苦しみ、その苦しみを合理化することで生まれる新たな苦しみ。聖書は、平和を実現しようとするイエスの福音の視座から自覚的に理解しないといけないと思います