タブー視せず向き合う課題

タブー視せず向き合う課題

「仲間意識が仲間はずれを作る~範囲限定的愛の罪深さ」

 今日、あるお寺の前を通過。掲示板に記された言葉に考えさせられました。それは、こんな言葉。
「仲間意識が仲間はずれを作る」
 ライン仲間の結束が、ライン外しいじめを生み出します。
 「愛国心」という言葉に悪印象や危惧が付随するのは、同国内での愛が、他国への敵意と争いを生み出した歴史があるからでしょう。
 分かりやすいのは暴力団。親分のために命を捨てる程の内部の愛が、外部を苦しめ、時には敵対者のいのちを奪います。
 まさに、仲間意識が仲間外れを作るもの。仲間という範囲限定の愛は、その範囲の外側の人々を排除しがちなもの。内側だけの閉じられた愛は、外側の人々の排除に、さらには、敵意や憎しみ、争いにさえ発展するもの。
 そう考えると、範囲限定の愛は、愛ならざる愛なのかも。内側だけの閉鎖的な愛は、罪さえも生み出すのでしょう。
 それは、教会も例外ではなさそう。キリスト教会の歴史を見れば、教派限定愛が、他教派への敵意と争いと殺戮を生み出してきた黒歴史も否定できないでしょう。
 今も見聞きするのは、信仰理解や神学的見解の違う相手に対して、愛とは正反対の憎悪や敵意をもって攻撃するようなケース。(追記:最も身近な事例は、クリスチャン同士の仲間意識が、教会や家庭などで、未信者に疎外感を与えてしまうことでしょう)
 聖書はそうした「範囲限定愛」の罪深さを示し、その克服へと私たちを招いているようです。たとえば、「よきサマリヤ人のたとえ」は選民内限定愛の偽善を示し、民族を超えた隣人愛を示しているのでしょう。まさに「同民族限定隣人愛」の克服です。
 罪人を受け入れるイエス様を批判し、失われた者が立ち返ることを神様と共に喜べなかった律法学者たちも、そのタイプの愛に生きていたようです。「仲間意識」だけでなく「エリート意識」「自己義認意識」もそこには加わっていたのでしょう。
 「汝の敵を愛せよ」とのイエス様の言葉は、そのことを端的に示しています。さらに、十字架の上でも「父よ、彼らをおゆるしください・・・」とご自身でその言葉を実行され、模範を示しておられます。語り掛けと実行を通じて、私たちに続く歩みをするように招いておられます。
 聖書は「範囲限定的愛」の間違いや罪深さを示し、それを克服した隣人愛に生きるよう私たちに語り掛けています。
「仲間意識が仲間はずれを作る」
 というわけで、今日は、お寺の掲示板の言葉から、聖書の真理を深く考えさせられました。