タブー視せず向き合う課題

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「一女性の証し~生の意味の最終的根拠としての終末」

 小田垣先生の見解の紹介、私自身の証しに続いて三回目です。終末は生の意味の最終的根拠です。イエス様が再び来られ、その後に永遠を生きるという未来の確定事実は、今の自分の判断を規定し、自らの人生を意味あるものとします。
 私事で恐縮なのですが、小さないのちを守る会の働きをさせていただく中で、そのことを痛感させられることが何度かありました。特定の事例の紹介ではなく、いくつかのケースを一般化したものとしてお伝えします。
 
 一人の独身のクリスチャン女性が予期せぬ妊娠をします。彼女は、出産を願いますが、どうしても育てられない事情があります。そこで、神様が与えられた尊いいのちを産み、育てる責任をクリスチャン夫妻に委ねるという養子縁組という選択を考えてもらいます。
 彼女は自分の置かれた状況では、それがベストだと頭では分かっています。しかし、産んだわが子を手放すのは、あまりに辛いこと。養子に出すなら、新しい親子の絆を築くために、その子とは、二度と会えないことも理解しています。彼女は、葛藤の中で、分かっていながら、こう問いかけます。「養子に送り出したら、もう二度とこの子とは会えないのですか?」
 
 私はこう応えていました。
「お伝えしましたようにこの地上ではお会いできません。でも、この子はクリスチャン夫婦の下で育てられます。きっとイエス様を信じるでしょう。そうしたら、やがて天で、この子と再会できるのですよ。その時、『お母さん、産んでくれてありがとう。あの時とても辛かったのに、育ててくれる両親に託してくれてありがとう』ときっと感謝してくれるでしょう。
 
 私たちクリスチャンの人生は地上で終わりではありませんね。既にこの地上から、永遠を生きているのですよね。そして、イエス様を信じる者たちは、たとえ地上で別れても、やがて天での再会があります。その再会に希望をもって、この子の幸せと救いを祈り続けて行きましょうね。」
 それを聞く女性の目には涙が流れます。それはわが身に宿ったいのちとの別れの悲しみの涙だけではないでしょう。それは再会の希望の涙、そして、それ故に、地上での一時的な別れを決断するために流す涙なのでしょう。
 
 そして、この女性はクリスチャンであるが故に、永遠を生きる者であるがゆえに、養子縁組を決意します。産んだわが子のことを地上の生涯、一日たりとも忘れることはないでしょう。しかし、その毎日は別離の悲しみだけでなく、そこには再会の希望があるのです。
 彼女にとって、終末は生の意味の最終的根拠となりました。終末後に永遠があるからです。その最終的根拠は、彼女を、とてつもなくつらい選択、しかし、その状況において最善の選択へと導きました。
 
 私たちの多くは、地上の生涯において、別のかたちで、同じところを通ります。神様に従う最善の決断が、最も避けたい辛い選択であることは、珍しくありません。その時に、主が再び来られること、その後に永遠が訪れること、既に、その永遠を生きるいのちに活かされていることを覚えて、大切な決断ができればと願うのです。
 終末は生の意味の最終的根拠。それは、クリスチャンを最善の選択・決断へと導き、その地上での歩みを意味あるものへと変えていくのです。
 お互いは、教理や信仰理解の問題として終末を考える以上に、生の意味を与える最終根拠として終末を受け止めたいものです。
 未来の出来事についての思索よりも、現在を生きるにあたっての判断、選択上の根拠としましょう。
 終末とは「論じられるもの」である以上に、「クリスチャンによって生きられるもの」であるはずですから。