タブー視せず向き合う課題
タブー視せず向き合う課題
- 「一事から考える万事①~今回の件を機に考えたいこと」
- 「一事から考える万事②~自称神学博士について」
- 「一事から考える万事③~牧師の自己顕示欲」
- 「一事から考える万事④~利用されてしまう大御所」
- 「一事から考える万事⑤~大御所にモノ言えぬ体質」
- 「一事から考える万事⑥~老害指摘タブーと結果的放置」
- 「一事から考える万事⑦~愛の訓告者の不在」
- 「一事から考える万事⑧~表面的かつ感情的で極端な反応」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任①~箴言29:18の真意」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任②~その正体は?」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任③~誰の願いを誰が叶えるのか?」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任④~諦めなければ・・・の無責任」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任⑤~信仰リーダーの無責任」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任⑥~カルトリーダーの無責任」
- 「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任⑦~高齢牧師の無責任」
- 「福音の終末教化、キリスト教の新宗教化」を危惧して
- 「私自身の証し~生の意味の最終的根拠としての終末」
- 「一女性の証し~生の意味の最終的根拠としての終末」
- 「来る来る詐欺に気いつけなはれや、閉店セールは嘘でっせ」
- 「仲間意識が仲間はずれを作る~範囲限定的愛の罪深さ」
- 「JKT(ジャニーズ、歌舞伎、宝塚)から、振り返る昭和の教会」
- 「卒業すべきもの~祝福の獲得ための聖書の文字通りの実行」
「一事から考える万事⑧~表面的かつ感情的で極端な反応」
〈表面的?感情的?〉
今回の件については、ネット上で時に両極端の反応をお見受けします。師を信頼し、応援してきた方の心情は想像し、心を痛めています。ただ、事の経緯や深刻な課題をご御存じなく、現象の表面だけを見て、強い自己感情から、そうした発信をしているとしたら、心配です。
起こってきた自己感情を短時間でスッキリさせるために、「被害者感情」「処罰感情」「断罪」とその対極にある「全面肯定」「水に流す」「即時一括美談化」という両者が起こっているのかもしれないと危惧しています。
起こった感情や思いを素直に、神様にぶつけるのはよいでしょう。しかし、他者や不特定多数に発信する際には、一定の事実認識と本質理解をした上で、祈り、聖書に問い、愛の動機かどうかをチェックしてからであって欲しいと思っています。そうでないと「表面的、感情的、極端」となり、共感者の賛同は得られても、幅広い信頼は得られません。そして、その発信は関係破壊的となってしまうでしょう。
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〈第一コリント5章から〉
今回の件を受けて、思い浮かんだのは最近説教をした第一コリント5章の1~5節でした。この箇所の背景には、未熟さ故の分裂がありました。未熟さ故に彼らは、特定の教職者を神様と同等かそれ以上に持ち上げ、別の教職者をさばいて、こき下ろしていたようです。そうした教職者へのさばきの問題から、「何事についてもさばいてはいけません」と一般論へと拡大されています。その意味で、この聖書箇所は、今回の件に当てはまると思うのです。
教職者を安易にさばくコリントの信徒たちに、パウロが示したのは、再臨のキリスト。最終的かつ絶対的なさばきは、再臨の主がされること。だから、「主が来られるまでは、何事も先走ってさばいてはいけません」なのです。
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〈さばきについては区別を〉
そこで大切なのは「さばく」の定義。「さばいてはならない」とは、「判断、評価」をしてはならないという意味ではありません。被告人であるのに、被告人席から抜け出して、裁判官席に座り、断罪するような「姿勢」こそが「さばくこと」だと思います。つまり、内容よりその姿勢、自らを省みぬ高慢さが問題だと私は理解しています。
イエス様も「さばかれないため」と根拠を語っておられます。これも被告人である自らを私たちに示しています。ですから、「石を投げること」は、神様が悲しまれることでしょう。ヨハネ9章に登場する女性の行為を「姦淫の罪」と判断することは、さばくことではないでしょう。しかし、イエス様の問い掛けの言葉を聞きながら、彼女に石を投げるなら、さばきに相当するのでしょう。
その意味で、「罪との判断」「罪を悲しみ、悔い改めの実を願うこと」「被害者の側に立ち、責任、償いに言及すること」まで、「石を投げること」、「さばいている」「責めている」「断罪的」と判断するのは、行き過ぎだろうと感じています。まずは、聖書をもとに、「さばき・断罪」と「そうではないもの」を区別して、落ち着いて考えることかと。
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〈主が来られるまでモヤモヤのままで〉
私には著名な教職者について、主が来られるまで、モヤモヤでいようと覚悟している件が二つあります。一人は、キング牧師です。彼には3名の愛人がいました。明確な姦淫の罪です。これを知った時はショックでした。でも、キング牧師の功績を否定することはできません。解放者である神の器だと思っています。
もう一人は、カール・バルトです。バルトの自宅には、妻以外の女性秘書、研究助手が同居していたそうです。当時そうした習慣はなく、バルトの死後に発表された二人の間での書簡を読むと、疑いは拭いきれませんし、たとえ不倫関係がなかったとしても、私は正しくないと考えています。しかし、その神学における業績は否定できません。
私は二人については、全面的に肯定もできず、かと言って全面否定もできず、また、罪と功績を別々と割り切ることもできず、モヤモヤしたままです。そして、主が来られるまでは、モヤモヤでいようと覚悟しています。
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〈主にあるネガティブ・ケイパビリティ―〉
「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉があります。ネット上での説明によれば、「容易に答えが出ない事態にも性急に事実の解明や理由を求めず、不確実さや懐疑の中にいることができる能力」とのこと。分かりやすく言えば、モヤモヤに耐え続ける力。
かつて、ビジネスの世界では、早く事実を解明して、迅速に判断し対処することがよいこととされてきました。しかし、今は場合によっては、状況に応じて、決断を遅らせることも、大切な能力の一つとされるようになったとのこと。
パウロが言及した教職者に対するさばき、あるいは今回の件に対しての私たちの取るべき態度はそういうことだろうと思っています。私たちは早く結論を出して、スッキリしたいものです。モヤモヤが続くのはストレスです。そして、白か黒か、0か100か、有罪か無罪かという両極端な判決を下したくてたまらなくなります。しかし、それら自己感情を優先とした反応は、神様が喜ばれることだろうかと思うのです。
神様は聖書を通じて、私たちが「主にあるネガティブ・ケイパビリティ―」を身に着けて歩むことを願っておられることでしょう。「さばき」の意味を確定した上で、「主が来られるまでさばかない歩み」をしてゆきたいものです。今回の件に際しての表面的で感情的で極端に思える反応に触れて、論考を記してみました。
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〈まとめと感謝〉
「一事が万事」と言いますが、今回は一事から万事を考えてみました。これで、最終回とさせていただきます。長いシリーズにお付き合いいただいたこと、有益なコメントの数々をいただいたことに、改めて感謝を申し上げます。