タブー視せず向き合う課題

タブー視せず向き合う課題

「一事から考える万事⑦~愛の訓告者の不在」

〈愛の訓告者になりえない内部者〉
 先に記したガラテヤ2章のペテロのケースでは、逸脱を指摘したのは、長年の同労者ではなく、「外様」のパウロでした。第二列王記のダビデ王の場合は、身内ではなく「部外者」「外部司法機関」である預言者ナタンでした。「第三者機関」という言葉があるように、事実を公平に見て確定し、正しい判断をできるのは、第三者であることが多いもの。
 本来は大御所に対して、愛を持って進言すべきは、所属団体や教団の関係者です。しかし、二回にわたり記した通り、「大御所にモノ言えぬ体質」もあれば「老害指摘タブー文化」もあります。これは、当人に近い程、強力に。さらには、上下関係があるため、身内ですと、指摘されたことが軽んじられてしまうことも。
 そうなのです。大御所が逸脱した場合、愛の訓告者が不在になりがちなのです。いたとしても、それが内部者ですと機能しないのです。では、この不在と機能不全を克服するには、どうすればいいのでしょう?
〈愛の訓告者は外部から〉
 そこで、パウロとナタンの登場です。同じ所属や二重関係にならない「第三者性を持つ存在」が「愛の訓告者」としては、ふさわしく、また実効力を持つことになります。最初は、大御所に近いところで、内部での解決を願います。越権行為にならぬよう遠慮もしてすぐには介入しません。祈り見守ります。
 しかし、いつまでたっても所属団体は現実を認識できなかったり、大御所に対して有効なアプローチができなかったり。そうこうするうちに、問題と被害は、団体を超え、教派を超えて、全国規模へ。さすがに、これ以上、深刻化させてはならないと、問題を認識し、危惧を共有する有志が「愛の訓告者」となることに。これは、現代版のガラテヤ2章のパウロ、第二列王記11章のナタンと言えるでしょう。
〈今後のモデルとして〉
 ただでさえ多忙な牧師たちが、こうした働きをされるわけです。しかも、誤解を受けることも、非難を受けることも覚悟の上と思われます。その決意と使命感を想像すると、頭が下がる思いがします。そして、今回、事実を明らかにし、責任を認めての悔い改めが表明されました。
 「内部者の愛の訓告」が機能せず、「外部の有志が立ち上がるを得なくなる」という展開は、これまでもあったように思います。しかし、今回は、それが明確に見える形で、実を結びました。私はこの「愛する会」の結実を、今後の希望として受け止めています。
「誰がペテロにとってのパウロになるのか?」
「誰がダビデにとってのナタンになるのか?」
 このことは、今後も、同様の事例がある度に問われることになりそうです。「愛する会」は解散しても、そのスピリットと理念と結実は、未来へと続くことでしょう。今回の事例がモデルとなり、対処困難な大御所の課題が、正しく解決されていく未来を願っています。