タブー視せず向き合う課題

タブー視せず向き合う課題

「一事から考える万事⑥~老害指摘タブーと結果的放置」

〈優れたリーダーの残念な晩年〉
 繰り返し書いていることですが、知人から聞いたのは、「聖書に登場する優れた信仰リーダーの70%は晩年に残念なことになっている」との見解。なるほど、旧約聖書に登場する優れた働きをしてきたリーダーについては、多分70%だろうと思うのです。
 これは聖書が示す人間の残念な現実。過去において用いられ実を結んできたことは、晩年においても、神様に喜ばれる歩みをすることを保証しません。いいえ、むしろ、70%の確率で残念なことになると想定した方が現実的なのかも。
 聖化の恵みを体現するような主の器が、晩年に肉丸出しの醜い歩みに向かってしまうこともあれば、聖書的な教会論と教職論で信頼を得てきた方が、晩年に教会を私物化し、信徒たちを苦しめることも。そんな事例を多く見聞きしてきました。「残念率70%説」には、一定の現実性を実感しています。
〈大御所故の高齢リスク〉
 本来は、晩年に向けて成熟し、完成に向かうべきでしょうが、逆にリーダーであるが故に、残念なことになりがちです。過去において実績がある大御所ともなれば、持ち上げられてしまいます。しかも、逸脱があっても、指摘してもらえない状況に。それどころか、利用しようとする者も。しかし、高齢のために、従来にはなかった課題に対しての対処はできません。そして「大御所ホイホイ」が待ち受けているのです。
 そのように、ご高齢となられた大御所は、危険な状況下にあるわけですが、一部の方は、その自覚がないことも。また、周囲もその危険性を認識して、守ろうとせず、逆に持ち上げてしまいがちで、ご高齢の大御所の判断と働きを、全面的に肯定し、応援してしまいます。時に、それは逸脱の後押しとなります。
〈老害指摘タブーその結果〉
 賢明さをもって、大御所を愛する方々は、その危険な状況を理解しており、守ろうとします。その真実な愛の故に逸脱があれば忠告もします。「大御所のファン」と「大御所を真実に愛する者」は、この点が違うと思うのです。
 しかし、この愛ゆえの忠告が、「老害扱い」「高齢者いじめ」「大御所軽視」のように受け取られることが多いのが、現実。晩節を汚すことなく生涯神様に従順に歩んで欲しいとの願いからの言葉が、高齢者を蔑む言葉、先輩に対して敬意を欠く言葉と評価されがち。
 良くない言葉だと思っていますが、あえて、分かりやすさを優先して、私はこのことを「老害指摘タブー文化」と呼びたいです。的確な事実認識に立ち、愛を動機として、ご高齢の大御所の過ちともたらされる損害を指摘することさえも、タブーとされてしまいます。それをすると、バッシングを受けることも。
 こうなると自己保身の思いから、いよいよ指摘ができないことに。その結果として、もたらされるものは「老害の放置」です。教会の私物化や不健全化は、克服されず、不健全な働きやカルト・異端は、ご高齢となられた大御所のお墨付きを受けて、キリスト教会を侵食してゆきます。
〈聖書は何と?〉
 聖書はこのことについてどう語っているでしょう。テモテへの手紙第一5章1節は言います。「年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ父親に対するように勧めなさい」と。
 ここで禁じられているのは、「叱ること」であって、「過ちの指摘」や「悔い改めに導くこと」ではありません。この聖句は、年若いテモテが高齢者の敬愛し、尊厳を保つことと、高齢者に過ちを認めてもらい、悔い改めていただくことを両立する道を示していると思うのです。「愛の動機と義の実現」を一つにする言葉だと思うのです。
 そして、「愛する会」の方々はきっと、叱るのではなく、その会の名称通りに、テモテ第一5章1節を実行してこられたのだろうと想像しています。そして、願うのです。私たちは、この御言葉を指針として「老害指摘タブー文化」を克服できないだろうかと。
〈聖書に立って考え直してみては〉
 「過去に優れた働きをされたから晩年も大丈夫」なのではありません。「神の器、油注がれた者」であることは、「神様に従い通す晩年」を保証しません。むしろ、優れた器だからこそ危険なのだと、聖書の記述から私は考えています。
 まずは、認識を改めることをお勧めします。そして、何より、「聖書がどう言っているか?」「聖書人物の残念な事例は今日の私たちに何を語り掛けているか?」をお考えいただければ感謝です。