タブー視せず向き合う課題

タブー視せず向き合う課題

「一事から考える万事⑤~大御所にモノ言えぬ体質」

〈日本の教会に強い上下関係〉
 「うちは、教会は各個教会主義ですが、牧師は監督制です」。これは先輩牧師が所属団体のことを語った自虐的ギャグ。日本の牧師の間には、共に教会に仕える者としての「平等性」と年齢や経歴による「序列」の両者があるようです。前者は「教会論的で水平方向」の横関係、後者は「日本的で垂直方向」の縦関係と言えそうです。今回、取り扱うのは、後者の方です。
 教職者間には、師弟関係や権威という要素があるので、運動部やサラリーマン社会に似た序列的な関係性になりやすいのでしょう。昭和の時代には、「主任牧師が黒いピアノを白だと言ったら、伝道師は『はい、先生、白です』というのが、聖書的正解」とまで、教育されることも。当時、私がそれに違和感は覚えても、異常とまでは思わなかったことを、今、「異常だった」と思っています。
 そんな関係性ですから、大御所にモノ言おうものなら、「干される」「報復人事を受ける」「自主退職に追い込まれる」などを覚悟せねばならぬ場合も。実際にそういうケースをいくつか見聞きしてきました。かくして、「大御所にモノを言えない体質」は形成され、現在も存続、弱まりつつも残存。
〈聖書が記す類似事例〉
 類似事例は聖書にも記されています。たとえば、前回、触れたガラテヤ2章のペテロもその一例。ペテロが、割礼派を怖れて福音から逸脱した行動をとっていたことは、他の使徒たちも、問題視していたはず。なぜ、二人だけのところで愛をもって、指摘しなかったのでしょうか?パウロが指摘できたのは、彼が、「新入り」で、いわば「外様」で、しがらみがあまりなかったからでしょうか?
 もう一つの代表的事例は第二列王記11章が記すバテ・シェバ事件。ダビデの逸脱行為を部下たちは知っていたはずですが、誰一人王を諫める者はいなかったようです。進言することは命懸けであったでしょう。王を戒めたのは、神に召され、王をも死をも恐れぬ預言者ナタンだけでした。
〈21世紀の日本において〉
 このことは、21世紀の日本のキリスト教会においても同様。たとえば、大御所が、カルトや異端の疑惑がある教会や団体に利用されていると見える状況があっても、進言することには心理的抵抗と躊躇が。放置できないと考えて、勇気をもってお尋ねしても、大御所牧師が「大丈夫」「健全」「問題ない」と言えば、引き下がらず得ない関係性であることも。
 そうなると教団や団体全体として、深刻な問題を認識しながら、責任放棄をしている状況に。あるいは教団や団体が、疑惑のある団体を支援する構造となってしまいます。そうなったと考えて、慙愧の思いを抱き苦悶しておられる牧師もいらっしゃいます。大御所が事実を正しく認識し対処していれば、防げたカルト化、牧師不祥事もあったはずという声も。
 さらには大御所の「大丈夫発言」を受けて、お世話になってきた牧師などは、安易にその働きに協力したり、参与したり。その結果、問題を深刻化しているとの指摘もあります。大御所も問題ですが、大御所を妄信し、主体的な判断と責任を放棄している牧師たちも問題ではないでしょうか。
〈今回の件を機に〉
 最後まで正しい事実認識ができず、過ちを認めぬまま、召されていく大御所も。しかし、被害者は残されて、苦しみの中を生き続けるのです。それを考えると、やり切れない思いがします。
 そうした中での今回の悔い改めの表明です。ここに至るまでの経緯も少し知っているので、個人的には真実なものとして受け止めています。同時に水に流すのではなく、悔い改めの実を結ばれることを祈ってゆこうと思っています。先に記したような残念な大御所とならなかったことを感謝しています。
 大御所や先輩たちの過ちに対して、愛をもって真理を語る(エペソ4:15)ことさえできない教職者間の関係はもう、終わりにしましょう。大御所の一存が、全体の決定に直結するような構造は、もう卒業しましょう。それは大御所個人の責任範囲を大きく超えて、広範囲に逸脱と不健全性をもたらす極めてリスキーな関係性であり、組織構造だと思うのです。
 今回の件を機に、そうしたことを考えてみてはどうでしょう。