タブー視せず向き合う課題

タブー視せず向き合う課題

「一事から考える万事③~牧師の自己顕示欲」

〈動機としての自己顕示欲、名誉欲〉
 今回の経歴詐称の動機として、ご本人は自己顕示欲と名誉欲を認めて、悔い改めておられます。牧師などの信仰リーダーは、常に自らの「動機」を自問すべきです。「愛」に「欲」が混ざります。また、働きの豊かな結実は、動機が不純であることを正当化しかねません。
 とは言え、自己中心的な動機は、「自己顕示欲」や「名誉欲」だけではないでしょう。「自己承認欲求」が奉仕の動機となることがあります。牧師である父親に認められたいとの「自己承認欲求」が、直接献身の強い動機であることも。
 牧師の「自己保身」が、道を誤られせることがあります。ガラテヤ2章において、ペテロは割礼派を怖れて、異邦人を避けて、パウロに叱責を受けます。これなどは、自己保身を動機としたことによる福音からの逸脱の典型でしょう。
〈さらなる他の不純物〉
 また「自己効力感の獲得」もそうです。他者の人生に強い影響を与えること、キリスト教会に何からの影響を及ぼすことによって、自らの力を確認、実感することが、働きの動機に置き換わってしまうことも。
 さらには、「自己実現」もそうでしょう。神様の願う自分を実現するのでなく、自分の願う自分を、神様を利用して実現しようとするのは、間違った動機です。「劣等感」を抱え、その「一発逆転」が動機である場合、「児童期までの満たさぬ欲求」を、牧師になることで「取り返そう」というのが動機である場合も。
〈牧師たちの内的葛藤〉
 ペテロでさえ肉的な動機、不純物を持っていたのですから、牧師のほとんどは、同様だと予想できます。ただし、それがすべて、あるいは、主成分というケースは少なく、ほとんどの場合は「不純物レベル」だと思うのです。また、私は、神様は時に、そうした不純物さえ用いて、直接献身へと召されることもあると考えています。
 大切なことは、神学校など準備期間の間にそうした動機を自覚すること。そして、牧師として歩み始めたら、常に動機を自問し、純化していくことです。「愛か欲か?」「欲が主成分になっていないか?」「欲望の達成が目的に置き換わっていないか?」それを常に自問している牧師は、大きな逸脱をすることはないでしょう。
 信徒の皆さんは、牧師は世的な名誉や出世を捨てて献身しているからその動機は純度100%に近いとお考えかもしれません。しかし、そうでもないことが現実です。そこは基本的に信徒と違いません。牧師の私が言うのだから間違いありません。
〈自覚し、警戒すべき金の子牛〉
 自己顕示欲や名誉欲などの間違った動機が主成分となると、教会を「舞台」に、主の働きを「題目」としての「自己欲求達成劇場」が始まります。そうなると、大抵は「目に見えるもの」を目指します。
 それはいわば「金の子牛」です。神と人を愛する歩み、召しへの忠実さ、そうした「過程」に見えることこそ、「真の目的」でしょう。しかし、金の子牛を求める思いは拭い難いもの。50歳を過ぎて、先が見えてくると、「金の子牛欲求」が高まります。私が思うに、その金の子牛は、三つの類型でまとめられます。
〈金の子牛の三類型〉
① アカデミー系~学位などのステータス、論文掲載、神学書の出版、目新しくインパクトある神学的見解の発表など
② 箱もの系~立派な教会堂、教会以外の教育、福祉、宣教施設、
③ 作品系~自伝、説教集、出版物、賛美集、賛美の音源、美術作品など
 どうか、誤解なさいませんように。これらが金の子牛というわけではありません。キリスト教会や次世代への貢献を願う動機であれば、むしろ、よいことなのです。しかし、これらが肉的な動機で行われるなら、金の子牛なのです。その場合には、ベテラン牧師の肉性が、周囲を苦しめ、時に教会離脱者を生み出したり、分裂を引き起こしたりです。
〈予防策について〉
 当人が課題を認識し自問することが一番ですが、そこには逃げや誤魔化しがあり、自分の課題から目を背けたまま、働きを継続させてしまうことも。日本人男性特有の課題でしょうが、自分一人で抱えて、妻にさえ課題や葛藤を伝えない方は少なくないように感じています。自己肯定感が低いとその傾向が強まるようにも思います。
 現実的な予防策は「正直な交わり」が一番かと。同労者、主にある親友、メンター、カウンセラー、誰より伴侶に、課題と葛藤を伝えることでしょう。このことを講壇から会衆に伝え、祈っていただくようお願いしている謙遜な牧師も。祈り、見守っていただき、危険な時は、指摘してもらえる関係に生きることが有効な予防策。弱さも葛藤も自己開示できる正直な交わりに、牧師自身が生きることが、何よりの予防策だと思っています。