コロナ関連投稿集

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5月4日「オンライン礼拝あれこれ⑨~物質性なき聖餐VS空間共有性なき聖餐」

 前の投稿で「本質としての身体性」を主張しましたが、身体性と同様に、意外と本質的なのが「物質性」。物質主義は間違いですが、物質否定主義も、また、聖書的ではありません。なにせ、神様による被造世界自体が物質なのですから。その物質世界自体が、今は堕落しており、キリストによって回復の途上にあるわけです。

 特に「飲食物」は物質性の中でも大切かと思うわけです。飲食は欲望の無限肯定であるむさぼりの罪につながりやすいので自制など注意は必要です。また、信仰の本質ではありませんから、優先順位はわきまえるべきしょう。

 しかし、創造時から、エデンの園に飲食はめぐみとして備えられました。イエス様は食事の交わりを通じて、当時罪人とされた人々に愛を示されました。復活後に身体を持たれたイエス様も、魚を食べられました。過ぎ越しの祭り、パンさき、主の晩餐、今日の聖餐は、まさに飲食。体のよみがえりの後のクリスチャンも、栄光の体をいただき、聖書の字義通りなら、御国でも飲食があります。

 そうです。飲食物は「いのち」、「愛の交わり」、「神の恩寵」と関連して、一貫して聖書が示す物質的な恵みの代表。飲食物を、単なる生命維持の必要、罪に導く誘惑と思ってはなりません。豊かな恵みを与える「物質」なのです。

 というわけで、今回比較したいのは、「物質性なき聖餐」と「空間共有性なき聖餐」です。どちらも本来の聖餐式ではなく、「緊急事態下における聖餐の一形態」。そして、どちらも最近、私自身が初体験したもの。

「物質性なき聖餐」は「エアーコミュニオン」。これは所属教会で4月の第一主日に初体験。陪餐者は会堂に集ってはいたいたものの、感染防止のため、パンとブドウ液なしに、みことばと祈りだけで通常の聖餐をイメージしての陪餐。聖餐は本来「飲食されるみことば」「恵みの実物供給」なのですから、飲食物を欠くことは、神学的には最大のツッコミどころなわけです。 

「空間共有性なき聖餐」とは、先の投稿で体験報告をさせていただいた「テレコミュニオン(遠隔聖餐)」のこと。時間共有はできるので、陪餐者相互の一体性を実感はできるのですが、やはり、空間共有性がないので、そこは、陪餐者の想像力で補う必要を感じました。

 聖書が記している聖餐は「身体性が必須」で、「時間と空間の共有が前提」ですので、こうした実践も、神学的にはツッコミどころ満載です。

 「聖書の時代には空間を超えた交わりがなかったから」、「今は、技術的に可能となったのだから、一般恩寵を活かして」と前向きに考えることもできるでしょう。「あくまで過渡的に」「緊急対処に限って」と割り切る考え方もあるでしょう。しかし、それより教派や団体の伝統や聖餐論を重視するのが、多くの日本の教職者の実情のように思いますし、私もそれでよいと考えています。

  
 4月と5月で、私は、ある意味、「実践神学的実験の被験者」となりました。その被験者としての実感から「物質性なき聖餐VS空間共有性なき聖餐」を考えてみました。すると、自分でも意外でしたが、「空間共有性なき聖餐」に軍配が!「共に集わずとも飲食ありの聖餐」が「共に集えど、飲食せずの聖餐」に勝るというのが、私の実感。

 というわけで、物質性と空間共有性のどちらが、聖餐において本質性が高いかと言えば、物質性だと感じています。「食べるみことば」「恵みの物質供給性」の方が、「共に集まり恵みにあずかること」より、本質にかかわるというのが、被験者なりの結論です。

 どこまでも、「被験者としての主観的考察」に過ぎませんが、聖餐式の執行については、「身体性」以上に「物質性」が重要視されるべきだろうというのが、今回の結論です。個人的経験からの拙い考察に過ぎませんが、「聖礼典の危機を深刻な危機として」受け止め、悩んでおられる皆様の参考になれば、感謝なことです。