コロナ関連投稿集

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5月3日「オンライン礼拝あれこれ⑧~遠隔聖餐、初体験の報告」

 今日は、テレコミュニオン(遠隔聖餐)を初体験。「教会は、召された神の民であり、礼拝の民」そして、「礼拝の中心はみことばと聖礼典執行」と考える私にとっては、遠隔聖餐は、実験的チャレンジでありながら喜びとなりました。

 まずは、いつもと違って、パンとブドウ液を自分で購入。そこで想像したのは、信徒の方々の戸惑いや緊張。「近所のスーパーで買ったパンやグレープジュースでいいのかな」と戸惑われたことでしょう。 
 
 また、「何かありがたみがないなあ」と思う方もいらっしゃったのでは?(聖別されるかどうかが本質とは言え、正直な思いでしょう)パンを小さく切り、ブドウ液を注ぐ際には、緊張したのではないかと察します。一言お祈りしてから、それをされた方も多いだろうと想像します。
 
  
 わが家でも、パンとぶどうジュースを購入して、準備。小さなお盆に乗せて、それを配餐するつもりでいたのですが、妻が、聖餐式少し前に小さな台をモニターの前においてくれました。これには、「聖餐卓を忘れていた!ありがとう」と感激。

 聖餐卓は、パンとブドウ液をその上に置くためのものですが、その役割より、大きな意味を聖餐卓は持つと考えています。聖餐卓は、聖餐に示されるキリストの「献身と犠牲」と礼拝の場における「臨在」を象徴しているわけです。

 ですから、聖餐式がなくても、聖餐卓は講壇の前に置かれ、キリストの臨在の向こう側から御言葉が語られるのがよいと思っています。また、献金が聖餐卓の上に置かれるのも、献金が自らの献身の証しであり、キリストの献身に倣うべきものだからだと学んだことがあります。

 
 さて、報告に戻りましょう。牧師が聖書を読み、モニター前のパンとぶどう液に対しての聖別の祈りをささげます。晩餐者である私は、いつものように、その恵みにあずかりました。

 あくまで、主観的な感想ですが、血と肉を覚えるという「縦の恵み」については、遜色なく恵みにあずかることができました。一方、主にあって一つであることを覚えるという「横の恵み」については、身体性をもって空間共有をしていないので、ネット上でのつながりを想起して補った上で、恵みをいただく必要を感じました。

 実際に恵みにあずかった者としては、、「経過措置、緊急対処に限定すれば、遠隔聖餐はありかな?」というのが実感。一方で、「陪餐者の側に、聖餐として受け止める信仰がなければだめだろう。疑いがあったら、成立していないのでは?」とも感じました。

 陪餐者として、主観的には、「実験的試みは成功」と評価しています。しかし、神様がどう評価されるかは不明。そして、その評価を探るために基準となる聖書からの神学的見解は、多様で幅があります。(次の投稿で、短い神学的考察をするつもりです)

 
 「神様はどう思われるのかなー?」と想像したとき、頭に浮かんだのは、意外にも、テレビタレントのヒロミさんの言葉。ヒロミさんの魅力は。粗野で武骨に見えながら、その奥に深い愛情を感じさせるところでしょう。

 礼儀や秩序を重んじるヒロミさんは、それに反した年下に「ばかやろー、何考えてんだ、おめーは!」と怒ります。その反面、料理を振舞った相手が、食べる前にコメントをしようとすると「つべこべ言わすに、黙って食えよ!」と言い放ちます。どちらも、粗野な言葉の背後に愛情を感じさせます。

 神様にとって、遠隔聖餐は、ヒロミさん的表現で言えば、「ばかやろー、何考えてんだ、おめーは!」なのか?それとも聖餐式をしないでいることは「つべこべ言わすに、黙って食えよ!」なのか?考えてしまいました。

 つまり、緊急措置とは言え、伝統や聖餐論からの逸脱行為としてお叱りをいただくようなことのか?それとも、聖餐式をしない礼拝を続けることは、できる形で聖礼典の執行をすべきとお叱りをいただくのだろうか?と。

  
 いやいや、どちらでもお叱りはないでしょう。神様は、その判断を教会に託しておられるのですから。同時に、その厳粛な委託に対して責任が問われるのだろうと思います。神様が注目しておられるのは「判断結果」より「判断姿勢」だろうというのが、私なりの結論です。

 今回の投稿はあくまで体験者の主観的実感に基づく報告と感想としてお受け止めいただければ、感謝です。同時に、小さな体験報告が「配信礼拝・聖餐式問題」で葛藤する読者の皆様のお役に立てばと願っています。