コロナ関連投稿集

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2月29日「礼拝中止の告知と報道が続々と~聖書的なようで間違った見解」

「礼拝中止の告知と報道が続々と~聖書的なようで間違った見解」

 テレワークならぬテレサービス(遠隔礼拝)、無観客試合ならぬ無会衆礼拝・・・。昨日から、今朝にかけて、フェイスブック上では、礼拝を中止する報道や告知を多く見かけました。礼拝自体の中止もあれば、会衆が会堂に集わない(配信等でカバー)という意味での中止もあります。
 カトリックは東京や埼玉などの教区でミサが全面中止。今朝、救世軍が一律中止との発信を見ました。各個教会単位での礼拝中止判断も多いようです。それらの教会は、多くの人が集まる、多様な方々が集う、幼稚園を併設している、感染者の多い地域である、地域との信頼関係が強いなどの特殊性があるようにお見受けします。

  以前の投稿に記したように、私は、公衆衛生は隣人愛の具現化であると理解していますし、昨日紹介した(日本同盟基督教団)見解表明のように、教会あるいは教団は、主にあって自律的かつ責任ある判断を委ねられていると考えています。
  
 ただ、二点、「それは違うよね」ということは記しておきたいです。

 一つは、へブル10:25の「集まりをやめたりせず」を根拠に、「いかなる場合も礼拝中止はみこころでない」とする判断です。「集まりを・・・」の直前には「ある人たちの習慣に倣って」との言葉があります。これは、交わりを軽視して集まろうとしない習慣を持つ人々の影響を受けないようにとの警告でしょう。

 つまり、この聖書箇所は、「間違った信仰理解に基づいて、習慣として、継続的に集まろうとしないこと」を警告しているのであり「緊急的状況において、一時的に、集まらないこと」には言及していないのです。ですから、この聖書個所を根拠に、感染防止目的の礼拝中止をみこころでないとする判断は、失礼ながら、聖書の誤読に基づく判断かと思います。

 もう一つは、「神様を第一とすれば感染しない」という判断です。ある牧師が「韓国で新天地が感染源となり、社会問題となっているから、私たちの教会も考えなくては」という趣旨の発言をしたところ、「新天地は異端だから、うちの教会は正統な信仰だから違う」との返答を受けたのだとか。これは「クリスチャンあるある」かもしれません。

 クリスチャンも未信者も、不衛生な環境で生活を続ければ病気になりやすいのが現実です。異端だろうが、大手新興宗教だろうが、正統的キリスト教会だろうが、同じような物理的状況なら、同様の感染リスクがあるはずです。戦時中、治安維持法によって、新興宗教のリーダーが逮捕拘束されていく中、クリスチャンたちは「あそこは怪しい宗教、私たちは違う」と考えていたようです。こうした歴史的失敗からも学習したいものです。

 そもそも神様を信じていたら感染しないとしたら、旧約聖書に公衆衛生法が記される必要自体がありません。神の民も感染するし、信仰共同体の中でも感染拡大するからこそ、民を愛する神様は市民律法として公衆衛生法を与えられたわけです。

 こうした危機的な状況の中でこそ、私たちは聖書を全体性をもって読み、その指針を読み取り、柔軟に現実の判断や行動に落とし込んでゆきたいと願っています。今、日本の諸教会は、その点において、どこまで成熟しているかも問われているように思えてなりません。