コロナ関連投稿集

コロナ関連投稿集

「オンライン礼拝あれこれ⑪身体性、もう一つの側面」

 4月27日には、身体性がいかに聖書において本質的であるかを示しながら、オンライン礼拝や聖餐式について、身体性故の限界性、不完全性を記しました。さらにそれとの関連で、オンライン礼拝のプラス面も語りながら、マイナス面として「現代版グノーシス主義」に陥りかねない危惧を指摘する齋藤真行牧師の動画もご紹介。
 
 そして、今回、紹介したいのは、「身体性の別の一面」を示す優れた考察。その主は「マナケン」こと眞鍋献一先生。私が物理的面での身体性の尊重から、オンライン礼拝の限界性を記したのに対し、眞鍋先生は、聖書的な身体観のもつ「別の一面」を示しながら、オンライン礼拝を「身体性の拡大」として、聖書から捉えて優れた考察をしておられます。
 
 眞鍋先生によれば、物理的な身体性も大切で、現段階ではオンラインには限界があり、物理的な身体性と、それに限定されない身体性の両者が大切であるとのこと。まさに「身体性が持つもう一つの側面」示してくださっています。
 
 というわけで、以下に当人のご許可の下、転載します。2000年前の聖書の記述と現代最先端のテクノロジーによってもたらされた恵みを、クリエイティブに結び付け、なおかつポストコロナ期の教会に開かれる可能性を見せてくれる優れた論考だと思います。ぜひ、ご一読を!

  <ポストコロナの教会について>

 この2週間、教会のあり方について様々な人とのやり取りを通して考えてきた。その一端を文章として残しておきたい。
投稿の主旨:身体性の拡大による公同教会の見える化へのより積極的な評価、新しい実践への期待
 

1、身体性の拡大について(単語に関する記述は、J.D.G.ダン「使徒パウロの神学」教文館 2019より。直接引用は二重括弧)
 身体(からだ)という言葉を使う時に、私たちは物質的なものを思い浮かべる。しかし、パウロがソーマ(体)という言葉を用いる時、少し違った概念で用いている。

 身体という意味を含むが、『体現(embodiment)」という方が適切かもしれない。この語(ソーマ)は特定の環境における人(格)の具現化であり、その環境において人が具体的に表現されている様子を指す』。このように理解するなら、『ソーマは体現された「私」であり、「私」と世が相互に関わり合いを持つ手段(場)だ。』
 
 インターネット/SNSの普及により、世界に関わり他者との関係性において「私」を具現化出来る範囲は、物質的な体の及ぶ範囲を超えて広がっている。「あなたがたのからだ(ソーマ)を、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」(ローマ12:2 新改訳2017)という時、それがSNS上での人間関係のあり方をも含むものであると、私たちは無自覚であっても的確にとらえているように。
 
 新約聖書時には存在しなかったテクノロジーによって、私たちの身体性(私の具現化)は拡大しており、今回の新型コロナウイルスに対応しての礼拝のオンライン化により、教会は新しいこの現実に気付かされてきている。これまでは、見えないものであった公同の教会が、実際にオンライン上で見える形となっている事に気付かされたのである。

 
2、聖餐を補う教会一致の可能性
 上述したローマ12:2は、実は一致についても大きな事を教えてくれる箇所となっている。パウロが実際にそこで述べていることは、「あなたがたのソーマ(複数形)を、神に喜ばれる、聖なる生きた1つのささげ物(単数形)として献げなさい。」という事だからである。
 
 複数の私が、1つのささげ物としてささげられる事。このような教会の一致は、これまでの歴史において礼典、特に聖餐式によって担保されてきた面が大きい。信条は特定の人たちを結びつけるが、他の考えの人たちを分かちもするからだ。だが、聖餐式は広く教会の違いを越えて実践されてきており、歴史的な教会へのつながりをも意識させてくれる。
 
 オンラインによる身体性の拡大は、これまでになかったあり方で教会の一致を補いうる可能性がある。新約聖書時代、パウロは律法の遵守を神の民・教会の必要条件とすることに反対して強く議論している。そこでは、イエスを主・キリストとして従順に従っていくのみが神に受け入れられる要件とされている(ガラテヤ2:11-21など)。
 
 これまでの歴史において、イエスを主・キリストと告白していない教会は存在していない。しかし、聖餐式を行わない教会は存在する。オンラインにより見える化されつつ世界へのかかわりの具体性をえている現在は、イエスを主・キリストと告白する信仰のみによって結びつくより広い教会の一致をキリスト者が自覚し連帯する契機となる。

 
3:結論と実践
 現在の状況は、物質的な意味での身体性にこだわり、より大きな可能性がすでに存在していたことに気付かなかった教会の目を開いてくれる時となっている。確かに、個々の地域教会にとっては、捕囚と感じるような困難であることは否めない。しかし、その困難を通して、私たちの目に見えずに働きを続けてこられていた神の働きの大きさを目にし、その働きに自覚的に連なることが許される機会であるともいえる。

 実践面で考えるならば、いくつかの事を進めてくれる可能性がある。イエスを主・キリストと告白しつつ実践の違いが大きい者たち(例:家の教会と制度的教会)がオンライン上での協力をなせるかもしれない。

 また、小規模地域教会のオンラインを通しての複数牧会といったこれまでになかったあり方でのかかわりが生まれ得る。
これまでのあり方に戻る事だけを望むのではなく、新しい可能性に目をとめる機会としていきたい。