コロナ関連投稿集
コロナ関連投稿集
- 2月28日「コロナウイルス対策~果たされるリーダーシップと求められるフォロワーシップ」
- 2月29日「礼拝中止の告知と報道が続々と~聖書的なようで間違った見解」
- 3月5日「悪魔の雑談特別編~悪霊係長、新型コロナを語る」
- 3月7日「妄想パウロ書簡~新型コロナと闘う日本の信徒への手紙」
- 3月12日「妄想ヨブ記~WHOのパンデミック宣言を受けて」
- 3月13日「妄想福音書~新型コロナをめぐる荒野の誘惑」
- 3月27日「礼拝は不要不急じゃないけど、外出とも限らないよね」
- 3月28日「妄想キング牧師~私には夢がある」
- 3月29日「今、日本に生きるキリスト者のための祈り」
- 3月31日「ずん飯尾風、現実逃避シリーズ・コロナ編」
- 4月6日「長編論考~受難週の中、緊急事態宣言を目前に」
- 4月7日「緊急事態下を生きる神の民①~ストレス解消によらず、信仰によって」
- 4月8日「緊急事態下を生きる神の民②~恐れによらず、愛によって」
- 4月9日「緊急事態下を生きる神の民③~妄想・山上の説教」
- 4月9日「緊急事態下を生きる神の民④~妄想・逆山上の説教」
- 4月10日「妄想パウロ書簡~ピリピリ人への手紙」
- 4月11日「緊急事態下を生きる神の民⑥~コノサイ人への手紙」
- 4月13日「緊急事態宣言下を生きる神の民⑦~コロナ流行のほとりで」
- 4月14日「緊急事態下を生きる神の民⑧~妄想黙示録2章」
- 4月15日「緊急事態下を生きる神の民⑨~ガラガラ人への手紙」
- 4月17日「緊急事態下を生きる神の民⑩ ~牧師寝ろ、牧師ありがとう、牧師寝てろ」
- 4月18日「緊急事態下を生きる神の民⑪~長編論考・牧師崩壊を防げ!」
- 4月18日「あるネット礼拝者の回顧」
- 4月18日「オンライン礼拝についての某牧師の金言」
- 4月19日「緊急事態下を生きる神の民⑫~ネット配信礼拝者向けCM」
- 4月22日「緊急事態下を生きる神の民⑬~弱者犠牲の上に立つ強者の安全と快適」
- 4月26日「緊急事態下を生きる神の民⑭ ~仮想・山田洋次監督にょる映画『コロナはつらいよ』」
- 4月27日「緊急事態下を生きる神の民⑮ ~現状への応答、そこにある希望、課題、責任
- 「オンライン礼拝あれこれ⑤~本質としての身体性」
- 4月28日「オンライン礼拝あれこれ⑥~最大のジレンマとしての聖餐式、すればツッコミ、しなけりゃダメ出し」
- 5月3日「オンライン礼拝あれこれ⑧~遠隔聖餐、初体験の報告」
- 5月4日「オンライン礼拝あれこれ⑨~物質性なき聖餐VS空間共有性なき聖餐」
- 5月4日「オンライン礼拝あれこれ⑩~聖なる関白宣言」
- 5月16日「緊急事態下を生きる神の民⑯ ~ひと段落ついたところで牧師のリフレッシュを」
- 5月17日「緊急事態下を生きる神の民⑰~今、牧師たちがマジでヤバい」
- 5月18日「緊急事態下を生きる神の民⑱ ~無会衆礼拝での奉仕が、こんなにもキツイのはなぜか?」
- 5月19日「緊急事態下を生きる神の民⑲長編論考 ~配信牧師に、受信信徒からの慰めと励ましを!」
- 5月22日「オンライン礼拝あれこれ⑪身体性、もう一つの側面」
- 5月22日「緊急事態下を生きる神の民⑳ ~ポストコロナの祈り」
- 5月26日「緊急事態下を生きる神の民㉑ ~コロナが開く『前例はないけど、やってみようの世界』」
- 5月27日「緊急事態下を生きる神の民㉒ ~カナンに進みゆく教会とエジプトに戻りたがる教会」
- 5月28日「緊急事態下を生きる神の民㉓ ~コロナが加速化させる次世代獲得と喪失の二極化」
- 5月30日「緊急事態下を生きる神の民㉔~妄想第一列王記」
- 7月16日「教会も事業持続化給付金?Go Toキャンペーン?」
5月22日「オンライン礼拝あれこれ⑪身体性、もう一つの側面」
<ポストコロナの教会について>
この2週間、教会のあり方について様々な人とのやり取りを通して考えてきた。その一端を文章として残しておきたい。
投稿の主旨:身体性の拡大による公同教会の見える化へのより積極的な評価、新しい実践への期待
1、身体性の拡大について(単語に関する記述は、J.D.G.ダン「使徒パウロの神学」教文館 2019より。直接引用は二重括弧)
身体(からだ)という言葉を使う時に、私たちは物質的なものを思い浮かべる。しかし、パウロがソーマ(体)という言葉を用いる時、少し違った概念で用いている。
身体という意味を含むが、『体現(embodiment)」という方が適切かもしれない。この語(ソーマ)は特定の環境における人(格)の具現化であり、その環境において人が具体的に表現されている様子を指す』。このように理解するなら、『ソーマは体現された「私」であり、「私」と世が相互に関わり合いを持つ手段(場)だ。』
インターネット/SNSの普及により、世界に関わり他者との関係性において「私」を具現化出来る範囲は、物質的な体の及ぶ範囲を超えて広がっている。「あなたがたのからだ(ソーマ)を、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。」(ローマ12:2 新改訳2017)という時、それがSNS上での人間関係のあり方をも含むものであると、私たちは無自覚であっても的確にとらえているように。
新約聖書時には存在しなかったテクノロジーによって、私たちの身体性(私の具現化)は拡大しており、今回の新型コロナウイルスに対応しての礼拝のオンライン化により、教会は新しいこの現実に気付かされてきている。これまでは、見えないものであった公同の教会が、実際にオンライン上で見える形となっている事に気付かされたのである。
2、聖餐を補う教会一致の可能性
上述したローマ12:2は、実は一致についても大きな事を教えてくれる箇所となっている。パウロが実際にそこで述べていることは、「あなたがたのソーマ(複数形)を、神に喜ばれる、聖なる生きた1つのささげ物(単数形)として献げなさい。」という事だからである。
複数の私が、1つのささげ物としてささげられる事。このような教会の一致は、これまでの歴史において礼典、特に聖餐式によって担保されてきた面が大きい。信条は特定の人たちを結びつけるが、他の考えの人たちを分かちもするからだ。だが、聖餐式は広く教会の違いを越えて実践されてきており、歴史的な教会へのつながりをも意識させてくれる。
オンラインによる身体性の拡大は、これまでになかったあり方で教会の一致を補いうる可能性がある。新約聖書時代、パウロは律法の遵守を神の民・教会の必要条件とすることに反対して強く議論している。そこでは、イエスを主・キリストとして従順に従っていくのみが神に受け入れられる要件とされている(ガラテヤ2:11-21など)。
これまでの歴史において、イエスを主・キリストと告白していない教会は存在していない。しかし、聖餐式を行わない教会は存在する。オンラインにより見える化されつつ世界へのかかわりの具体性をえている現在は、イエスを主・キリストと告白する信仰のみによって結びつくより広い教会の一致をキリスト者が自覚し連帯する契機となる。
3:結論と実践
現在の状況は、物質的な意味での身体性にこだわり、より大きな可能性がすでに存在していたことに気付かなかった教会の目を開いてくれる時となっている。確かに、個々の地域教会にとっては、捕囚と感じるような困難であることは否めない。しかし、その困難を通して、私たちの目に見えずに働きを続けてこられていた神の働きの大きさを目にし、その働きに自覚的に連なることが許される機会であるともいえる。
実践面で考えるならば、いくつかの事を進めてくれる可能性がある。イエスを主・キリストと告白しつつ実践の違いが大きい者たち(例:家の教会と制度的教会)がオンライン上での協力をなせるかもしれない。
また、小規模地域教会のオンラインを通しての複数牧会といったこれまでになかったあり方でのかかわりが生まれ得る。
これまでのあり方に戻る事だけを望むのではなく、新しい可能性に目をとめる機会としていきたい。