「御心が分からないと悩むあなたに」
「御心が分からないと悩むあなたへ(1)~聖書が記す普遍的御心>聖書に記されていない個別的御心」
婚活中のクリスチャンから、聞こえてくるのは「御心がわからない」という声。結婚に限ったことではないでしょう。これは、正直で、深刻な悩みです。そこで、5回にわたり、私見を記してみます。
第一回として、伝えたいのは、「聖書が記す普遍的御心>聖書に記されていない個別的御心」ということ。
「御心と示されたから・・・」「御心だから・・・」と「御心」を連発する青年男子に、牧師が言います。「君の教会生活を見ていたら、とても、御心がわかるとは思えないんだけど・・・」
神様の御心には、「分かりづらい御心」と「分かりきった御心」があります。前者は多くの方が悩むもので、聖書に直接記されていない個別的御心、具体的御心。たとえば「誰と結婚するか?」「どこに就職するか?」など。
それに対して、後者は、聖書に記されている明らかな御心です。例えば、「神と隣人を愛すること」「神を礼拝すること」「教会の交わりに生きること」などです。これらの御心を知り、不十分であっても、実行していく中で、個別的具体的、御心がわかり、従えるよう者へと成熟するのです。つまり、後者あっての前者なのです。分かりきったことを知らず、実行しようとしない人に、わかりづらいことは、分かりませんし、実行できません。
冷たい奴だと言われるでしょうが、私は、正当な理由や特別な事情もなく、常習的に礼拝に遅刻するクリスチャンに、個別的御心がわかるとは思いせん。ましてや、示された御心が不本意であっても、従うだろうとは期待しません。
「御心が分からない」と嘆く場合、それが、未熟な信徒なら厳しい牧師はこう戒めるでしょう。
「君は、聖書が明記している御心を知ってるんか?それに従う気があるんか?それなしに、誰と結婚、どこに就職、これをすべきかどうかなど、神様の御心が分かるわけがないだろーが!」
「顔を洗って出直して来なさい」とは申しません。御心がわからず悩んでいるということは、自分に対する神の意志を知り、実行したいという真摯な思いがあるのですから。悩むこと自体が、御心に歩むクリスチャンに成熟していく入り口なのでしょうから。
まずは、「分かりきった御心」を知り、従いましょう。そのために、聖書や信仰良書を読み、教会等での教育の機会を活用しましょう。「御心」を求めるより、「御心がわかり、従える自分になること」を求めましょう。求めるべきは、「御心」より「成熟」です。「自分についての神の御心」ではなく、「神が自分に対して願っている成熟」です。その意識変革から、御心を知り、御心に歩める成熟したクリスチャンとしての歩みが始まります。