信仰生活

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「信仰による自己肯定感低下③~非聖書的な完璧主義」

〈聖書が記す完全とは?〉
 自己肯定感のプロが、自己肯定感の低さの要因として指摘したのは「完璧主義」。昨日記したように、100-0思考は、100点以外は全て0点という完璧主義思考を生み出します。完全を目指す姿勢は美徳ですが、完璧主義は、美徳ではありません。認知の歪みの一つの現れです。
 クリスチャンは、真面目な方が多く、神様に対して完全であろうと努力します。しかし、聖書が命じている完全さは、「愛における完全」「姿勢における完全」「関係における完全」であって「行為と言葉と思いにおける完全」ではないと思うのです。つまり、「言葉や思いにおいても罪や過ち犯すことのない完全」「悔い改めの必要のない完全さ」ではないと思うのです。
 神と人を愛し、罪と過ちは悔い改め、関係を回復し、歩み直していけば、キリストに似た者へと変えられようと前向きの姿勢であれば、私はそれが「全き歩み」だと理解しています。しかし、もし、「行為と言葉と思いにおける完全」との聖書理解をするなら、認知の歪みが強い方は、「100点ではない自分は0点」との自己評価になるでしょう。そうなれば、あるがままで愛されている事実があっても、自己肯定感が低いのは必然。
〈自分の目で見た完璧?〉
 もう一つ、師が指摘されたのは、完璧主義のクリスチャンの「完璧」は「自分の目から見ての完璧」だということ。神様の視点から見ての完璧ではないのです。「自分で完璧に思える自分」を目指しており「主の御前で全き者」を目指してはいないのです。
 聖書が記す「完全」「全きもの」とは、神様の前でのこと。神様との関係にあってのもの。そう考えると、完璧主義思考は、現実に対して認知の歪みに留まらず、「神を除外した自己充足感追求」にまで至ってしまうのではないでしょうか?
〈目の梁としての完璧主義〉
 師は、こうした完璧主義は、「自分の目にある梁」だと指摘します。聖書的にも取り除くべきものだとおっしゃいます。多分、完璧主義に限らず、認知の歪みはすべて、目の梁なのでしょう。
 本来、それらは、神様の前に出るなら、示され、自覚に導かれ、取り除くはずのものです。人との交わりの中で、指摘されたり、愛をもって悟らせたりしていただけるものでしょう。しかし、成育歴などの影響で強い認知の歪みがあると、それは、容易ではないのでしょう。この課題の困難さはそこにあるように思えています。