信仰生活
信仰生活
- 「御心が分からず悩むあなたへ①~聖書が記す普遍>記さない個別」
- 「御心が分からず悩むあなたへ②~灯であってサーチライトでない」
- 「御心が分からず悩むあなたへ③ ~御心って保険じゃないし」
- 「御心が分からず悩むあなたへ④ ~そこに愛はあるんか?」
- 「御心が分からず悩むあなたへ⑤~ひとりでなくつながっている」
- 「それって試練なの?①~二つの代表事例」
- 「それって試練なの?②~試練でまとめないでください」
- 「それって試練なの?③~なぜ、試練でまとめたがるの?」
- 「それって試練なの?④ ~後からほのぼの想うもの」 ㅤㅤ
- 「それって試練なの?⑤~別格の苦しみの存在」
- 「それって試練なの?⑥~三つの視点を提案」
- 「悪魔の逆福音~いっさいのことを自己承認欲求で行いなさい」
- 「あるがままの自分からあるがままの神様への視点変更」
- 「あるがマニアの時代①~福音との関係において」
- 「あるがマニアの時代②~神様との関係において」 ㅤ
- 「あるがマニアの時代③他者との関係において 」 ㅤ
- 「あるがままで愛されたら 自己肯定感は向上するのか?」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン①~それは何か?」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン②~聖書中の事例」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン③~あるあるの事例」
- 「信仰による自己肯定感低下①~原因としての認知の歪み」
- 「信仰による自己肯定感低下②~曖昧さを生きる力」
- 「信仰による自己肯定感低下③~非聖書的な完璧主義」
- 「信仰による自己肯定感低下④~自己肯定感の低さ=謙遜?」
「信仰による自己肯定感低下③~非聖書的な完璧主義」
〈聖書が記す完全とは?〉
自己肯定感のプロが、自己肯定感の低さの要因として指摘したのは「完璧主義」。昨日記したように、100-0思考は、100点以外は全て0点という完璧主義思考を生み出します。完全を目指す姿勢は美徳ですが、完璧主義は、美徳ではありません。認知の歪みの一つの現れです。
クリスチャンは、真面目な方が多く、神様に対して完全であろうと努力します。しかし、聖書が命じている完全さは、「愛における完全」「姿勢における完全」「関係における完全」であって「行為と言葉と思いにおける完全」ではないと思うのです。つまり、「言葉や思いにおいても罪や過ち犯すことのない完全」「悔い改めの必要のない完全さ」ではないと思うのです。
神と人を愛し、罪と過ちは悔い改め、関係を回復し、歩み直していけば、キリストに似た者へと変えられようと前向きの姿勢であれば、私はそれが「全き歩み」だと理解しています。しかし、もし、「行為と言葉と思いにおける完全」との聖書理解をするなら、認知の歪みが強い方は、「100点ではない自分は0点」との自己評価になるでしょう。そうなれば、あるがままで愛されている事実があっても、自己肯定感が低いのは必然。
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〈自分の目で見た完璧?〉
もう一つ、師が指摘されたのは、完璧主義のクリスチャンの「完璧」は「自分の目から見ての完璧」だということ。神様の視点から見ての完璧ではないのです。「自分で完璧に思える自分」を目指しており「主の御前で全き者」を目指してはいないのです。
聖書が記す「完全」「全きもの」とは、神様の前でのこと。神様との関係にあってのもの。そう考えると、完璧主義思考は、現実に対して認知の歪みに留まらず、「神を除外した自己充足感追求」にまで至ってしまうのではないでしょうか?
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〈目の梁としての完璧主義〉
師は、こうした完璧主義は、「自分の目にある梁」だと指摘します。聖書的にも取り除くべきものだとおっしゃいます。多分、完璧主義に限らず、認知の歪みはすべて、目の梁なのでしょう。
本来、それらは、神様の前に出るなら、示され、自覚に導かれ、取り除くはずのものです。人との交わりの中で、指摘されたり、愛をもって悟らせたりしていただけるものでしょう。しかし、成育歴などの影響で強い認知の歪みがあると、それは、容易ではないのでしょう。この課題の困難さはそこにあるように思えています。