信仰生活
信仰生活
- 「御心が分からず悩むあなたへ①~聖書が記す普遍>記さない個別」
- 「御心が分からず悩むあなたへ②~灯であってサーチライトでない」
- 「御心が分からず悩むあなたへ③ ~御心って保険じゃないし」
- 「御心が分からず悩むあなたへ④ ~そこに愛はあるんか?」
- 「御心が分からず悩むあなたへ⑤~ひとりでなくつながっている」
- 「それって試練なの?①~二つの代表事例」
- 「それって試練なの?②~試練でまとめないでください」
- 「それって試練なの?③~なぜ、試練でまとめたがるの?」
- 「それって試練なの?④ ~後からほのぼの想うもの」 ㅤㅤ
- 「それって試練なの?⑤~別格の苦しみの存在」
- 「それって試練なの?⑥~三つの視点を提案」
- 「悪魔の逆福音~いっさいのことを自己承認欲求で行いなさい」
- 「あるがままの自分からあるがままの神様への視点変更」
- 「あるがマニアの時代①~福音との関係において」
- 「あるがマニアの時代②~神様との関係において」 ㅤ
- 「あるがマニアの時代③他者との関係において 」 ㅤ
- 「あるがままで愛されたら 自己肯定感は向上するのか?」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン①~それは何か?」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン②~聖書中の事例」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン③~あるあるの事例」
- 「信仰による自己肯定感低下①~原因としての認知の歪み」
- 「信仰による自己肯定感低下②~曖昧さを生きる力」
- 「信仰による自己肯定感低下③~非聖書的な完璧主義」
- 「信仰による自己肯定感低下④~自己肯定感の低さ=謙遜?」
「キーワードとしてのコンフォートゾーン②~聖書中の事例」
自己肯定感に限ったことではないのですが、「コンフォートゾーン」との用語を知り、一番に思い出した聖書が記す事例は、ヨハネの福音書5章に登場するベテスダの男です。彼はよくなりたいと願って、この池の回廊に横たわっていたのですが、イエス様の「よくなりたいか」との愛満ちた?あまりにもド直球の問い掛けが、彼の心の奥底の本音を引き出します。
それが、5章7節の言葉なのですが、まさに、彼の「コンフォートゾーン」が形成された過程を想像させます。①水が動くたびに」彼が挫折してきたという残酷な事実、②「水に入れてくれる人がいない」との不本意な事実、③「他の人が先に下りて行く」という悲しい事実。それらは、彼に「良くなろうと願わない」というコンフォートゾーンを形成したようです。
そう、彼のいた場所は、「よくなりたい」と願いやってきたベテスダの池であり、同時に、「よくなりたいと願わない」というコンフォートゾーンだったのでしょう。体は癒しを願う場所にありながら、心は癒しを諦める場所にいたわけです。ですから、彼にとって良くなろうと願うことは、コンフォートゾーンからの脱出であり、それは、さらに挫折し、傷つくことを意味していたわけです。
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そんな彼に、イエス様は、ただ、「床を取り上げて歩きなさい」と命じます。彼はそれに応答して立ち上がり歩きます。イエス様の愛の問い掛けは、失っていた本来の願いを、よみがえらせ、イエス様の愛の命令は、コンフォートゾーンを脱する決断と力を与えられたのでしょう。
聖書を心理学的視点から解釈しているのではありません。聖書は、とっくの昔に、人間の深く矛盾した真理を描いており、それを、近現代において、一般恩寵としての心理学的が客観性をもって解明したのだと私は考えています。その成果の一つである言葉をキーワードに、従来からの普通の解釈を新たな表現で記してみただけのことです。
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一般恩寵の世界では、心理学的アプローチで、コンフォートゾーン脱出は可能となるのでしょう。それは、クリスチャンであるなしに、関係なく有効なのでしょう。
一方で、特別恩寵にあずかっているクリスチャンは、2000年前の「よくなりたいか」との問いかけを自らへのものとして受け止め、「床を取り上げて歩きなさい」を自らへの語り掛けとして、応答することができます。
決して、簡単ではなく、「いつも必ず」、「すぐに全部」ではないでしょう。それでも、イエス様の愛は、失っていた「よくなりたい」との思いを再び抱かせ、私たちを立ち上がらせるでしょう。その愛の力と実効性は、信頼し、希望を抱いてゆきたいと願っています。