信仰生活

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「それって試練なの?⑤~別格の苦しみの存在」

〈苦しみの名言だけど〉
 このシリーズも、あと二回で終わりにする予定です。
「涙の数だけ強くなれるよ」と岡本真夜は歌う。
「人は悲しみが多い程に人には優しくできるのだから」
と武田鉄矢も歌う。
「人生の目的は苦しみをなくすとこではなく、
苦しみを実らせることである」と有名神学者は言う。
 どれもが、苦しみについての名言に違いありません。でも、これは、「通常レベルの苦しみ」のお話しでしょう。これが当てはまらない「別格の苦しみ」が存在します。
 涙の数だけ、弱くなり、最後は死に至るような苦しみがあります。悲しみが悲惨過ぎて、多過ぎて、人を傷つけざるを得ない人となるケースがあります。実を結ばせようのない苦しみ、苦しみだけで終わっていく苦しみがあります。
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〈別格の苦しみの存在〉
 いじめ、親からの虐待、夫婦間DV、性犯罪被害、カルト被害、被差別経験など、数えきれない事例を見聞きし、直接間接で相談を受けてきました。その中には、一定、苦しみから逃れてからも、後遺症的な苦しみの中にいらっしゃる方も少なくありません。忍耐した末に、その苦しみが益となり、喜びになることなどありえないのです。脱出の道を通るのですが、最終的に完全に脱出したとは言えない場合もあるのです。
 そうです。「別格の苦しみ」「終わることなき苦しみ」は存在します。地上の生涯にわたって、その人を苦しめ続ける苦しみは存在します。そして、それはクリスチャンが神様を愛する中で、経験することがあるのです。この現実を無視して、すべての事例を「仮想試練化」して、「理想的な聖書的正解」を押し付けるのはいかがなものかと思います。
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〈Ⅰコリ13:10の適用範囲は?〉
 いじめ経験者の中には、クリスチャンの親や教職から、「恨んではいけません」、「赦しましょう」「祈って愛せば相手は変わる」と教えられ、より苦しんだ方も。親からの虐待を打ち明けると、周囲のクリスチャンたちから同じように「恨んではいけません」「どんな親でも神様が与えたのだから」「愛してゆこう」と言わるケースを聞いてきました。
 親から虐待を受けてきたある方は、「神様は耐えられないような試練にあわせることはない」との言葉で、自分の悲惨な境遇を理解したそうです。親からの虐待を神様からの試練と受け止め、忍耐することがみこころだと信じていたわけです。どうも、大人になり、かなりの年月の後、それが違っていたと気が付いたようです。何と悲しいことでしょう。
 まさに、「何でも試練でまとめないでください」です。第一コリントの10章13節が言及しているのは「試練」であって「苦しみ」ではありません。このみ言葉の適用範囲は「試練」です。他の苦しみに適用するなら、それは人を「悪の餌食」としかねません。試練でまとめることが、神様のみこころに反して、理不尽な苦しみの中にいる方々を鞭打つこととなりかねないことをご理解いただきたいものです。
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〈終わることなき苦しみがあるからこそ〉
 苦しみの中には「別格の苦しみ」があります。「終わることなき苦しみ」は存在します。「クリスチャンを一生涯にわたり苦しめ続ける苦しみ」はありえるのです。
 その苦しみで苦しみ続けているクリスチャンがいらっしゃるのなら、苦しみを放置し、見届けるのではなく、すべきこともあるでしょう。最終回は、その役に立つであろう指針を私なりに記してみます。