信仰生活
信仰生活
- 「御心が分からず悩むあなたへ①~聖書が記す普遍>記さない個別」
- 「御心が分からず悩むあなたへ②~灯であってサーチライトでない」
- 「御心が分からず悩むあなたへ③ ~御心って保険じゃないし」
- 「御心が分からず悩むあなたへ④ ~そこに愛はあるんか?」
- 「御心が分からず悩むあなたへ⑤~ひとりでなくつながっている」
- 「それって試練なの?①~二つの代表事例」
- 「それって試練なの?②~試練でまとめないでください」
- 「それって試練なの?③~なぜ、試練でまとめたがるの?」
- 「それって試練なの?④ ~後からほのぼの想うもの」 ㅤㅤ
- 「それって試練なの?⑤~別格の苦しみの存在」
- 「それって試練なの?⑥~三つの視点を提案」
- 「悪魔の逆福音~いっさいのことを自己承認欲求で行いなさい」
- 「あるがままの自分からあるがままの神様への視点変更」
- 「あるがマニアの時代①~福音との関係において」
- 「あるがマニアの時代②~神様との関係において」 ㅤ
- 「あるがマニアの時代③他者との関係において 」 ㅤ
- 「あるがままで愛されたら 自己肯定感は向上するのか?」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン①~それは何か?」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン②~聖書中の事例」
- 「キーワードとしてのコンフォートゾーン③~あるあるの事例」
- 「信仰による自己肯定感低下①~原因としての認知の歪み」
- 「信仰による自己肯定感低下②~曖昧さを生きる力」
- 「信仰による自己肯定感低下③~非聖書的な完璧主義」
- 「信仰による自己肯定感低下④~自己肯定感の低さ=謙遜?」
「それって試練なの?④ ~後からほのぼの想うもの」 ㅤㅤ
〈「青春時代〉ならぬ「試練時代」〉
40年以上前、森田公一とトップギャランの「青春時代」というヒット曲がありました。人々の心に強い共感を生んだと思われるのは、この歌詞でしょう。
「青春時代が夢なんて、後からほのぼの想うもの
青春時代の真ん中は道に迷っているばかり」
ある苦しみが後に幸いと思える試練であっても、試練の中にある当人にとっては、この歌詞と同様でしょう。
「苦しみにあったことも幸いなんて、後からしみじみ想うもの
苦しみの歩みの真ん中は信仰で迷っているばかり」
これは「青春時代」ならぬ「試練時代」
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〈三つの事例〉
理不尽な苦しみの中を通りながら、後になって、試練であり幸いであったと言えそうな聖書登場人物。お分かりやすい代表は、創世記のヨセフとヤコブ、そして信仰の勇者ダビデの三人でしょう。
ヤコブはラバンの下で、理不尽な苦しみの連続。今で言えばロマンス詐欺、ラバン牧場は超ブッラク企業で不当労働契約に不当労働行為の繰り返し。、
ヨセフは兄弟に恨まれ、殺しかけられ、奴隷に売られ、主人の妻には嵌められ、冤罪で投獄され、献酌官には恩を忘れられの理不尽オンパレード
ダビデは、誤解か、被害妄想か、病的せっかくなのか?サウルから命を狙われて理不尽な逃亡生活。
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〈三つの共通項〉
いずれも、神様の側には試練としての意図があり、当人たちは事後にそれを知ったのでしょう。それぞれの試練も目的は、神の民の族長にふさわしい者となるため、民の民を飢饉から守るため、神の民の王としてふさわしい者とされるためでした。救済史的に大きな目的があったわけです。
ヤコブは明確な言葉はないでしょうが、エサウとの会見後、どこかでそのことを悟ったでしょう。ヨセフは明確に、主が兄の悪事を良きことの計らいにされたと発言。ダビデも苦しみにあったことは幸いであったと回顧。まさに、後からしみじみ想うものです。苦しみの中にあっては、信仰が試され、迷い、神様を疑うこともあったでしょう。
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〈そこから言えること〉
ですから、他者の苦しみについては、理不尽な苦しみが、試練と思えるタイプの苦しみであったとしても 苦しみの途中にある方に簡単に「試練」「後で益となる」と言うのはどうかと思います。共に泣き、苦しみを共有し祈る方がよい場合が多いでしょう。
また、苦しみが過ぎ去り、幸いと思える結果が見えたとしても、「益に変えられ感謝でしたね」「試練だったということですね」などと安易に言うべきでない場合も多いでしょう。
教会には、いじめや虐待の経験者や不幸な成育歴を持つ方も少なくありません。それらの理不尽な苦しみを通じて、神様に出会った方も多いでしょう。だからと言って「救われたからそのことも益」「神様がプラス」と安易に言うのは、どうかと思えます。少なくとも、他者がそれを口にしても、問題がないのは、当人がそれを言ってからでしょう。
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〈さらに広い視点でも〉
グローバルな視点、歴史的な視点でも、それは言えることでしょう。旧植民地のクリスチャンの多くは祖先がキリスト教国の植民地主義を伴う宣教の結果、福音を信じました。アメリカに暮らす黒人クリスチャンの多くは、奴隷であった祖先が、白人のご都合によりキリスト教信仰を持つように導かれました。日本には被爆経験によって、信仰をもった方々、その子孫もおられます。
果たして、植民地主義、奴隷制度、原爆投下などを、益に変えられたからとの理由で「それ自体は悪だが、結果として良かった」と言えるでしょうか。ましてや、救いという結果が手段を正当化するような発言はあり得ないでしょう。
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〈自らを省みて〉
しかし、私たちはともすれば、同じようなことをしていないでしょうか?聖書の示す試練や背後にある神様の愛と摂理を知るクリスチャンが、他者の壮絶な苦しみを、聖書的に評論し、試練に分類し、神様の視点で、「益に変えられた。それさえも幸い」などと軽率に結論づけてしまうことはないでしょうか?
「なんでも試練でまとめないでください」
「苦しみにあったことが幸いなんて後からしみじみ想うもの」
「苦しみの歩みの真ん中は信仰に迷っているばかり」
苦しみの中にいる方を本当の意味で、愛し、助けるために
苦しみの識別力を身につけたいものです
評論家でなく、共に苦しむ者であれたらと願います。