信仰生活

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「それって試練なの?③~なぜ、試練でまとめたがるの?」

〈聖書中の「試練」と「試み」の数〉
 知人牧師がこんな情報を提供してくださいました。聖書アプリで検索をかけると、 「試練」=14件 「試み」=58件 「苦しみ」=190件 「苦難」=87件なのだそうです。
 もちろん、「苦しみや」「苦難」の中には、試練に相当するものもあるでしょうが、苦しみはそれほど、試練と結び付いているわけではなさそうです。とりわけ、旧約聖書では、不信や罪の報い、あるいは人類の普遍的堕落に起因する災いなど「試練ではない苦しみ」が、多いのだろうと想像します。それなのに、クリスチャンは、試練でまとめたがります。なぜでしょう?
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〈正しいのに躊躇する解決〉
 試練ならクリスチャンは、苦しみの場に留まり、忍耐し、信仰の成長を遂げて、振り返ってその試練を喜ぶべきです。それが試練への聖書的対処です。では、以下の苦しみとそれへの対処はどうでしょう?
いじめを受けたので、学校へ行かない、逃げる
ブラックな職場で鬱になりかけ、退職、転職
DVを受け続けて、一時避難、とりあえず別居
 
 これらは正しい対処の一つだと私は思います。しかし、当人も周囲も、躊躇や抵抗を覚えて、決断実行できないことも少なくないようです。こうした苦しみの事例さえ、試練にまとめてしまい、留まり、乗り越え、成長の糧にと考えるのはなぜでしょう?今回は思い付いた理由を二つに分けて記します。
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〈根底にある自尊心〉
 一つ目の理由は「自尊心」の問題でしょう。苦しみの場から逃れることは、ともすれば、「戦わずして負ける」「立ち向かわず逃げる」と受け止めがちなもの。そうなれば、自分が惨めな気分になります。カッコ悪いです。自分が情けなく思えてしまいます。これは自尊心が傷つきます。悪いは相手なのに、自分が悪く思えてきます。だから、「試練」と受け止め苦しみの場に留まろうとしてしまいます。
 また、ある牧師はコメントでさらに深堀をしてくださいました。試練でまとめたがる私たちの根底にある自尊心についてこう指摘しています。「問題を負いきれない自分を受け入れられない、自尊心に基づくそんな負い目を解消するための(神の権威を誤用した)現状追認の姿勢、そんなことを感じました。」
 対処不能な苦しみの中、無力な自分を認めたくないので、解決努力ばかりか避難さえもせず、現状に留まり続けてしまうということと受け止めました。現状に留まり続ければ、逆に自尊心は傷つきません。「自分は試練と受け止める立派なクリスチャン」と思えるからです。これは間違った自尊心がもたらす、間違った判断です。さらには、自らを損ない、悪を放置助長させてしまいます。
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 苦しみの場を去ることは、「逃げ」ではなくむしろ、自分を守るための「勇気ある決断」です。苦難の場を去ることは、「戦わずして負けること」ではなく、「自らの間違った自尊心への勝利」であり、さらには「相手に悪を犯させないという「愛の勝利」にもなりえます。
 去ることは、神の子とされた者を愛する神様が願われる選択肢の一つでしょう。間違った自尊心よりも、神様の思いを大切にして、また、主にある自らの尊厳を優先していただきたいと願うばかりです。
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〈日本的美学の影響〉
 二つ目の理由は「日本的美学」でしょう。古くいは「巨人の星」や「おしん」がその代表。いつの時代も、苦しみの中で忍耐し、成長を遂げていく主人公を描く作品は、大人気です。今どきの人気アニメやテレビドラマ、ゲームも同様でしょう。
 そうした日本的美学が福音理解にも影響し、苦しみを試練一辺倒に理解してしまうのでは?ドラマやアニメの主人公のように自分の人生のストーリーを展開するのがベストと考えているのかもしれません。
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 「置かれた場所で咲きなさい」が大ベストセラーとなったのは、聖書に由来する普遍的な価値観と日本的美学が合致したらだと私は思います。私の理解では、この言葉は、「どんなに辛くても環境を変えず、そこに留まり花を咲かせましょう」とは言っていません。
 しかし、書物の趣旨を離れて、タイトルだけが独り歩きして、誤解をされていると感じています。「置かれた場所で咲きなさい=辛くても花咲くまで移動してはいけない」と受け止めることは、日本的美学による福音の受け止めに類似しているように思えてなりません。
 また、日本には、「人生で起こる苦しみは修行」という仏教的なのでしょうか?そんな伝統的な思想もあります。日本のクリスチャンの根底には、そうした影響があるのかもしれません。それが、福音によって価値転換されず、むしろ、それに合わせて福音が理解されている可能性もなきしもあらず。
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〈自己犠牲、無抵抗従順の美学〉
 実は、DVを受けて育ってきたクリスチャン女性から、個人的にメッセージをいただきました。そこには「自己犠牲の美学」「無抵抗服従の美学」という文言が記されていました。自らを傷つけ、悪を放置してでも、その美学を優先させるような肉性が日本にはあります。それが福音理解に反映し、聖書が示す悪への対処や人間の尊厳はスルーされ、美学を優先してしまうのかもしれません。
「自己犠牲の美学」「無抵抗服従の美学」、一昔前の教会には、それが福音に生きる最高の姿のように教える傾向があったように感じています。それがカルト的に利用され、悲劇に結びついたのは言うまでもありません。
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〈まとめと提言〉
 あれこれと考えたことを記してみました。私たちは聖書全体から多様な苦しみとそれぞれの対処を学ぶことを怠り、間違った自尊心や日本的な美学の影響から、自らと他者の苦しみを「試練でまとめたがる」のはないでしょうか?
 その結果、間違った対処へと自らや他者を導いているのではないでしょうか。神様が苦しみの中にある者に対して願っておられる方向とは、別の方向へと向かわせているのではないでしょか。
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 「何の益ももたらさない苦しみ」「悪の犠牲となり終わっていく苦しみ」は現実にあります。また、聖書にも、それらは多く記されているはずです。私たちは一部の「試練克服ヒーロー」や「信仰訓練教理」ばかりを耳にしてきたために、聖書的バランスを欠いているのでしょう。
 冒頭の聖書の語句検索の結果は、そのバランスの欠如を私たちに示しているのかもしれません。改めて、聖書全体から、苦しみについて、その多様な事例や原則、性質、対応を学び直す必要があるように思えてなりません。