信仰生活

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「あるがマニアの時代③他者との関係において 」 ㅤ

神様の中心的な御心は神様と隣人を愛すること
あるがマニアたちはあるがままで愛されていながらも
神様をあるがままで、愛そうとはしない
さらには、他者をもあるがままで愛そうとしない
 
神様から注がれている無条件に愛を
他者への愛へと転化することがない
神からは無条件で愛されながら
他者に対しては条件付きでしか愛さない
そこで、愛の対象を取捨選択する
あるがままで愛する他者とそうでない他者とを選別
前者だけを愛して、他者は愛さない
しかも、それを自分ではなく相手の責任にする
 
「あるがままの愛」は他者との関係においても
一方通行のあるがまま、自己利用目的の愛
神様に対しても他者に対しても、あるがままの愛は
受ける愛ではあっても、与える愛には決してならない
かくして、あるがマニアは愛の基本を喪失
神と隣人を愛する中心的な歩みを始めない
それは愛において、一歩も前進しないことを意味する
しかし、当人は受ける愛で充足し、不足感がない
聖書が示す豊かな愛の関係が想像できない
あるがまま愛し合う交わりイメージがない
常に自分を中心とした愛のネットワーク発想
自分は、愛の受信機だが、発信機ではない
 
世界的な自己愛的文化の拡大が指摘される
欧米は、聖書的相互扶助を失い自己愛的に
それが日本を侵食しているとの指摘の声も
もちろん、日本の教会も例外ではないだろう
以上のような現状分析と解説は簡単
しかし、牧会現場での対処と克服は困難
 
ただ、聖書が示す類似事例はあるようだ
その一つは第二テモテの4章だろう
真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代
それを予期したパウロがテモテに宛てた手紙
仮想あるがまま教の神は、現代の作り話だろうから
 
対処の原則は第二テモテの4章にあるとおり
忍耐の限りを尽くし、絶えず教え、責め、戒め、勧めたい
愛を持って外から、ドアをノックし続けるしかない
開けてもられなくても、失敗でも力不足でもない
心のドアは、内側にしかドアノブはないのだから
現代に特有と思える問題であっても
対処や克服の原則は聖書にあるもの
あるがままで愛された者として、その愛をもって
あるがマニアをあるがままで、愛し仕えたい